震災と津波と原発
のりさんからの返信
「荒川に何か書いて欲しい」というのりさんの一言がきっかけで、このシリーズは始まりました。それに応えて荒川さんも原稿を寄せてくれました。事態は進行中なので今後もどんどん更新していきたいと思います。今回はのりさんからの返信です。
のりさんは職場で遭遇した
仕事場(NHKエンタープライズ)でパソコンに向かい『さらばモハメド・アリの時代』という番組の翻訳チェックをしていました。地震の瞬間は隣の机の本棚が"大崩壊"しそうになったので同僚と必死に支えていました。
福島原発事故に思う
福島第一原発の5基の原発がトラブルに陥り、しかもその時点での冷却機能が失われているのを見て背筋が凍り付き、「もし、事故が収束することがあったら、これからは原発がなくても暮らせる社会をつくるしかない」と思いました。
これまで電力の多くを原発に頼ってきたわけですが、たとえ想定を越えた津波であったにせよ、1回の災害で「東日本を放棄せざるおえない」ような"種の危機"を
招くのはリスクが多き過ぎます。「より安全な原発をつくるべきだ」との議論も聞こえてきますが、経済規模は小さくしても安全な社会をつくるべきだと思います。
以上のりさんからのメッセージでした。
皆様コメントをお寄せください。
(大輔)
◎100万キロワット級の原発を1年間運転したときに生まれる核分裂生成物の量(つまりは核燃料のなかにある放射能)放射能の量は全量で18万(10×15乗ベクレル)、摂取限度の約2500兆倍。このうち、希ガス(クリプトン、キセノン)は放射能の量で3.5%、摂取限度でゼロ(気体で体内には蓄積しないと考え摂取限度は定義されていない)ヨウ素は放射能の量で1.7%、摂取限度で3.2%。セシウムは、放射能の量で2.4%、摂取限度で12.2%。ストロンチウムは、放射能の量で2.4%、摂取限度で4.2%。そしてプルトニウム。放射能の量で33.9%、摂取限度で32.4%。3分の1はプルトニウム↑
机の下にもぐるとすぐに強い横揺れ。一瞬のうちに大きな地震であることが分かった。揺れが長く続き、少し収まった後も再びゆれだす。揺れの大きさがこれまで体験したことないものであることを認識。とても怖かった。コンクリート校舎なので、「このまま潰れたら死ぬなぁ・・・」と死をちょっと覚悟。
近くの教室からは叫び声や泣き声がずっと続く。しかし、我がクラスの子どもたちはかなり冷静で、叫ぶ子も無く、静かにしていた。ときおりしゃべる声が聞こえたので、「静かに!」と注意。この注意は2回か3回した。
しばらくすると校内放送があり、上履きのまま校庭に避難して並ぶ。学級ごとの人数確認がすぐに終わる。こういう場合、子どもたちは静かにしていることになっているのだが、結構うるさい。私の担任しているクラスはここでもおおむね静かだったが、他のクラスでは泣いたりしている子も。隣に並んでいる5年生はおしゃべりがうるさい。うーーむ。
全クラスの人数確認が終わり、校長が「私が長い間生きてきた中でも一番大きな地震でした」というようなことを子どもに話す。 と、ここで生徒指導主任の教員が子どもたちがうるさいことに対してやや長い時間を使って説教。 何人かの教員から「集団下校」をしたらどうか、という声が出始める。この「集団下校」の担当者は私。そこで、校長のところに行き、その提案をするとその場で「集団下校」が決定。
「オレンジメール」という名の携帯電話への一斉送信システムで保護者に「集団下校」を通知。しかし、このシステムは遅延が生じることがよくあり、また、携帯電話を登録していない保護者や、携帯電話を変えたり、メールアドを変更しても学校に連絡してこない保護者もいるのであてにならない。
そこで、校長が「電話連絡網でも連絡してください」と言う。が、職員室には少数の教員がいただけなので徹底されず。私はすぐにPTAの学級委員長に電話をした。 一旦、教室に戻り、帰りのしたくをすぐにして再び校庭に出る。今度は靴に履き替える。 校庭に出る際、他の教員が「こんなときに電話連絡網なんて言ったって、時間が無いよ」とぼやく。ごもっとも。 ここで再びクラスごとの人数確認。2年の4クラスはすぐに確認できたので、学年主任の私が校長に報告。
しかし、他の4つほどの学年がなかなか確認できない。その原因は、迎えに来た親がいたための混乱。 地震の大きさと「集団下校」の連絡を受け、保護者が続々と学校にやってきて子どもを連れ帰る。一応、担任に話してから帰るのだが混乱。
「3時20分に校庭に出て、3時30分に下校開始」という当初の予定は崩れ、3時40分頃?に下校開始。教員は「集団下校」訓練時に決められた通りに子どもたちと一緒に歩いて下校の安全を確認。
私の勤務校では、避難訓練が年3回、「集団下校」訓練も3回で計6回の訓練をしていて、逃げたり校庭に並んだりというのはかなりよくできました。だめだったのは「おしゃべり」。「泣き・叫び」は、まあしょうがないんだけどね。
机の下にもぐったとき「死」を意識しましたが、1号炉の爆発映像を見て再び「死」を意識しました。 原発はもう廃止して欲しいです。 これまで、反戦平和運動・労働組合運動にはかなり労力を注いできましたが、もし、このまま無事に生き延びることができたら、反原発運動にも労力を注ぎたいと思います。
これを書いている3月19日午後8時30分現在。関東地方でのテレビ映像のすべてで原発報道番組が無くなっています。 NHK総合は、マッキンリー登山、教育テレビは料理・・・。画面の枠には文字情報が流れていますが・・・・。 私としては原発ライブ映像を24時間流していて欲しいです。 (が、NHKの30キロ離れた距離からのテレビ映像は驚異的!! あんな距離からあれほどの映像が撮れるの??!!)
でもって、ほんとは群馬から避難したいんだけど、まだ学校が終わっておらず、このまま沖縄に逃げると生き延びることができると思うけど、もしも、原発事故が大きくならずに収束した場合、職場に戻れなくなることは確実。うーむ困った。
すでに、勤務校では、家族ぐるみで避難した子どもが私の知る限り1家族います。連絡帳で「なぜ前橋市は終業式を早めないのか?」というような苦情を学校に伝えてきた保護者も私の知る限り2名。 前橋市教育委員会からは教員向けに文書が出た。放射能について群馬県のHPに載っているものをほぼそのまま載せ、隅に手書きで「保護者からの問い合わせには数値をあげて・・・」と安全を強調するもの。
ところで、群馬は公共交通機関が貧弱で、車がないともうたいへん。で、、私の車の燃料残量メモリは残り2個。ガソリンスタンドは軒並み「品切れ」。うー。まあ、自転車通勤すればいいんだけど、この時期は花粉症がひどく、放射能も心配で・・・・・・。 以上です。
おさは荻大にはあまり関わらなかったと言っている。
だが、あっこちゃんの同級生で宮崎の映画のころから我々の仲間になった。
今ではmixiの日記で時々コメントを交換している。きょうの日記に彼女の思いがつづられていた。
さっそく転載の許可を頂いたので以下に掲載する。日記のタイトルは「日本の勇気」だ。
せめて子どもを守りたい
まるで特攻機を見送るようです。
原発に放水、修理に向かう作業員の方たち。
被災地に被爆避地域に向かう物資輸送トラック。
原発が動かないために停電で亡くなる方達。
地震や津波で災難に見舞われた方は勿論 その余波はとどまるところを知らない。
被災地に物資を募る倉庫が自転車で30分くらいの場所にあったのをツイッターででみつけたが、遅かった、もう出発してしまった。 次の便がいつ出るか聞いてみてあとで行ってみよう。
せめて子供を被爆から守りたい。
未成年の疎開を真剣に政府が考えてほしい。
欲しいものを我慢して募金してくれる子供たちに感動していたってだめなんだ。
国は国民は政府は約束してほしい もう絶対に原発はつくらないと。
被爆するとこんなになっちゃうんだ とチェルノブイリの資料を見せたいが、どれも目を覆おうものばかりでとても子供に見せられたもんじゃない。
何がどう大丈夫なのか?
核の廃止国とか綺麗事をよくも唱えたな。
そんなに安全なら皇居につくれと 建設当時に言った言わないと高校の先生から聞いたことがある。
今の事態が想定外など嘘もいい加減にして欲しい。
東京電力さんに頭を下げさせるのか?
政府は土下座しないのか?してもらっても もう遅いが・・・
大丈夫って、一体何がどう大丈夫なんだ。
大丈夫と言い続けて 日に日に状態は悪くなっているじゃないですか。
今までだって散々政府の隠し事に騙されてきた訳だが あんなに「大丈夫」といわれ続けると、優等生のお人好しの日本人はつい言われたとおりに信じて待っててしまうですよ。
まさか手遅れにならないですよね。
もうこまでという事態になって 天皇陛下や総理大臣が軍用機で逃げないですよね。
日本に生まれた以上もう心中は覚悟しないといけないのか?
海外で 日本の冷静さを褒めている様にも聞こえるが 落ち着いているほうがおかしい。
子どもたちの未来を考える
子供たちにのしかかるのは 赤字国債や高齢者社会だけじゃなく核の後始末だったのか・・・
たまたま近所のスーパーでアルバイトをしている次男が、いつものシフトを超えて日々休憩もなく手伝いに行って非常事態を目の当たりにしている。
万引きする人も文句を言い散らす人もいっぱい見たらしい。
仕事から帰った長男は仕事に行くために父親の代わりにガソリンスタンドに並び 帰宅したのはいつもの寝る時間を過ぎていた。
この子達の未来が原発現地で作業してくれている人たちの勇気に守られているのかと思うと手を合わせずに居られない。
テレビは真実を伝えているか?
多くの有名人が募金をしてくれています。
有名人がTVで被災地に送る物資の募集情報や ACが何故延々と流れているのかとか 詐欺や悪質な行為をやめるようにとか 停電時の準備や過ごし方とかを代わる代わる紹介してもらったりするといいと思います。 この連休週末 計画停電は行わないというが 自宅だからこそ電気を使わないように過ごそうとか呼びかけて欲しい。
西日本の人たちにだって一緒に見てもらってもいいじゃないですか。
同じようなニュース番組を各局で放映しているけど 捜索・安否確認の呼びかけ専門のTV番組があっても良いと思う。
携帯会社がそのサービスをしているが、基地局がなくなったり携帯を持っていない老人や充電できていない人たちはどうしろと・・・
通常の娯楽番組やドラマも放映しているけど、あまり見る気になれない。
今やメディアの力は大きいので TV局も もっとこの非常事態を考えた番組を流して欲しいと思う。
ミス連発の行き当たりばったりの生放送でも誰も文句言わないよ。
被災地の人たちを支援する人たちの情報を伝えるとか どこでは何が欲しいとか どうして欲しいとかを放映する番組もあると良いと思います。
今東京に居て何ができるのか現状じゃわからないのが本当のところ。
未来を憂うより今をどうしたらいいのか・・・
こんな時こそ、国民にきちんと ちゃんと 本当の真実を伝えてもらいたい。
以上おさの日記を紹介しました。
皆様のコメントをお待ちしています。
(大輔)
震災から1週間、荻大の仲間たちは無事だったのだろうか?
ちょうどそこへのりさんからメッセージを頂いた。
「こういう時こそ長年環境問題に取り組んできた荒川に何か書いてほしい」という内容だった。
ずっとUstreamで震災報道をただ眺めていた自分だが、のりさんに背中を押された気がした。荻大ノートで皆に連絡してみようと思いアンケートを試みた。質問は二つ。
1)いつどうやって遭遇したか?そのときどう思ったか?
2)福島原発事故についてどう思うか?
するとさっそく沼辺さんから返信があった。
千葉に住んでいる沼辺さんはその時早稲田にいた。
以下は沼辺さんからの返信に大輔が見出しを付けた。
沼辺さんは早稲田を移動中だった
当日は地下鉄で早稲田まで出向いて昼食を摂り、早大の演劇博物館の展示を観たあと、夕方から講演会のある四谷三丁目へ移動しようと、早稲田通りまで戻って信号待ちをしているところでした。
不意に足元から突き上げるような衝撃を覚え、目の前で信号機と電柱が激しく揺れています。周囲の建物という建物が悲鳴のような軋み音を上げ始めま した。咄嗟に「とうとう東京に大地震がきた」と直覚し、「ビルからの落下物を避けなければ」とじりじり後ずさり。背後にあった寺の境内に足を踏み入れる と、水盤が波だって溢れています。とりあえず安全そうな場所なので、その場に立ちすくむこと五分ほど。ひとまず揺れは収まりました。
そこで携帯から自宅に電話をかけると繋がらず。ふと周囲を見回すと、建物から飛び出した人々が路上でこぞって携帯を手にしている。これでは通じ るわけがないと諦め、とりあえず目的地の四谷まで歩くことに。もちろん頭上と足元に細心の注意を払いながらです。途中で何度か余震があり、外壁が剥がれた 家や崩れた塀も目にしましたが、甚大な損害はなさそうです。なのでこの時点では「大したことはなさそう」と多寡を括っていました。
ヘルメットに防災頭巾
一時間ほどかけ目的地である四谷三丁目の国際交流基金ビルに到着。案の定、講演会は中止とのこと。講師が到着できず、しかもホールの壁が崩落した、係員からそう聞かされてギョッとしました。「これは結構大きな地震らしいぞ」と。
とにかく千葉の自宅に帰りたいと思いました。こんな日に地下鉄は怖いので、JRの四谷駅を目指して歩き出すと、逆方向(つまり新宿方面)へと向か う人波が圧倒的に多い。それで「ははあ、JR総武・中央線は動いてないな」と察しました。ヘルメットを被ったサラリーマンやOL、防災頭巾姿の小学生たち ともすれ違い、ただならない雰囲気。「これはおおごとだ」と、いよいよ緊張感が走ります。
JR四谷駅はもちろん改札閉鎖。そこのTVで初めて大地震の報道に接しました。ただし、情報は錯綜し、津波の第一報もまだだったかと思います。公衆電話があったので行列して自宅にかけてみると、繋がりはしましたが家人は不在。とりあえず伝言で無事を伝えました。
段ボールの寝心地を知った
このまま四谷駅前に屯していても無意味なので、土手沿いに市ヶ谷、飯田橋と歩きました。「少しでも千葉に近づこう」と考えたからです。飯田橋駅のTVで都内のすべての電車が停まっていると聞かされ、この段階でいよいよ腹を括りました。
周囲はもう暗いし、寒くなってもきた。時計をみると七時。歩き疲れて喉も渇いたし腹も減った。今のうちに食べておこうと駅脇のショッピングビル 「RAMLA(ラムラ)」のタイ料理屋で夕食。一時間ほどして辞去すると、ビルの一階の床には手回しよくブルーシートが敷かれ、希望者には段ボールが配ら れました。「まあいいや、ここなら雨風が凌げる」と観念して、段ボールを貰い、その場にしゃがみこみました。傍らの公衆電話がようやく自宅に繋がり、互い の無事を確かめあうと「今夜は飯田橋で夜明かしする」とだけ告げて、自分の場所に戻ってごろりと横臥。段ボールの寝心地を初めて知りました。
福島原発事故に思う
地震列島に原発を作ればこうなるのは当然の帰結です。想定内のことがただ起こっただけ。以前からそうわかっていながら、声を上げることもせず、この国家的暴挙をみすみす許してきたわれとわが身がどうしても許せずにいます。
逃げられる人はどうか逃げてほしい。特に年若い人たちは。Go west!
もしも生き残れたら、今度は必ず声を上げることを誓います。
以上、沼辺さんからの返信をご紹介しました。
皆様のコメントをお待ちしています。
(大輔)
戦後最大の惨事
2011年3月11日に日本を襲った東北関東大震災。それは10メートルを超える津波を伴って瞬時に2万人近い犠牲者を出しただけでなく、福島原発事故という恐るべき副産物を生み出して現在(3月19日)も進行中だ。
福島原発は1971年に営業運転を開始。その後1979年に6号機の営業運転が開始されるまで、着々と原子炉を増設していった。ちょうど荻大の仲間が出会った頃には2号機の営業運転が始まっていた。70年代は原発が次々と建設されることに地域住民の不安が増大し、我々の前にも公害問題の延長線上に生じた新たな社会問題として「原発」が横たわっていた。
30年以上たった今、我々はこの戦後最大の惨事を前に何を語り発信できるだろうか?
荻大メンバーとの対話の中から探っていこうと思う。
大輔の場合
まず自分のことから始める。地震が起きた時、僕はオーストリアのアルプスのふもとにいた。発生が日本時間3月11日の14時46分。8時間の時差があるオーストリアではまだ朝の7時前だった。その日は2日に亡くなった義父の葬儀の日だった。8時頃起きてネットで朝日新聞をチェックした。その時に宮城県沖を震源とするマグニチュード8.8の大きな地震があったことだけ知った。
10時過ぎ義父の家に親戚が集まり始めた。皆すでに地震のニュースを知っていた。口々に「日本で大地震があった」「君の両親は大丈夫か?」と声をかけてくれる。東北の地震なので横浜に住む両親に影響があるはずは無いと思っていたが、心配になって電話をしてみた。電話の向こうからのんびりした調子の母親の声が聞こえた。何も被害はないということだった。だがこの頃には7メートルから10メートルの津波が東北地方を襲ったという報道が少しずつ伝わってきた。
13時から葬儀が始まり、付近のレストランで親戚や友人一同と食事をしたが、そこでも僕と挨拶する人は口々に「日本の地震は大変なことだ」「君の家族は無事か?」と声をかけてもらうことになった。オーストリア人の関心の高さを感じた。僕は声をかけてくれる皆さんに、被災地は日本の北部なので東京に近い横浜に住む自分の両親は無事だった、と説明した。その時は横浜の両親に避難を勧めることになるとは思ってもみなかった。
津波の脅威と原発事故の恐怖
翌朝届けられた新聞は一面トップで日本の津波による大惨事を伝えていた。テレビのニュースでも映像が出始めていた。僕はUstreamでNHKをはじめとする民放各局の特別番組を見始めた。繰り返し流される津波の空からの映像に息を呑んだ。田園地帯が飲み込まれていく様子が映し出されていた。ヨーロッパでの報道はまず大津波の恐ろしさ、そのメカニズム、そして次に原発問題に絞られていった。
オーストリアはすでに原発を捨てた国だ。だがチェコが国境付近に旧式の原発を稼動させているので、原発事故には非常に神経質になっている。お隣のドイツは原発推進国だったが、政権交代後原発を廃止する路線をとってきた。それがここ数年の地球温暖化でもう一度原発を見直す機運が出てきているところだった。それだけに両国のテレビニュースは日本からの中継を交えながら原発事故の状況を詳しく伝えようとしていた。
週明けの新聞は一面トップが津波の爪あとのすさまじさ、2、3面の見開きは原発問題で埋め尽くされていた。立体的な原子炉のCG画像に詳しい解説が付け加えられていた。最大の関心は、これがチェルノブイリのような汚染を世界中にもたらすかどうかだった。ヨーロッパ人は1986年のチェルノブイリ事故を忘れたことがない。あの時まき散らされた放射性物質は半径300キロを汚染し、ヨーロッパ各国はおろか日本にまで到達した。それが気流に乗って数日でやってくることを彼らは良く知っている。
オーストリア人のカミさんは「私が東京にいたら娘を連れて沖縄に逃げる」と言った。そういえばかつて東海村の臨界事故のときに関西にいたヨーロッパの体操チームがあわてて帰国したことがあった。300キロから500キロの距離ならば、風向き次第で数日で放射性物質が流れてくることがわかっていたからだ。今回、日本政府は福島原発から半径20キロを避難対象とした。だが、仮にチェルノブイリのような事態になれば、原発から250キロほどの横浜に住んでいる僕の両親や姉夫婦にも放射能汚染の危険が生じる。もちろん東京にいる同僚や友人たちにもだ。
不思議の国ニッポン
僕はまず両親と姉夫婦に避難を勧めた。しかし皆まじめに話は聞くものの、いざ避難となると現実的に考えられないようだった。何人かの友人も同じだった。その背景には「冷静な行動」を呼びかける日本政府とNHKや民放各局の論調が影響しているようだ。一方ドイツやオーストリアの外交関係者らはすでに15日には東京を発っている。フランスは自国民に(東京ではなく)日本から出国するように呼びかけてエールフランス便を増発させていた。
日本に住み財産を有する日本人が、おいそれと避難できないのは理解できる。だが僕にも理解しにくいのは、日本政府や保安院や東京電力の人々が妙に落ち着いていて危機感が見られないことだ。一方で菅直人は「最悪の事態では東日本がつぶれる」とまで言い切っている。それなのに首都圏の住民を避難させない。その自信、確信はどこから来るのだろうか?アメリカやヨーロッパの各国が日本政府と日本人を不思議な存在としてみているのは、その根拠のない自信のようなものが理解できないからだと思う。
なんとかなるさ。まさかそんなひどいことにはなるまい。きっと放水がうまく行くよ。きっと電気が来てまた冷却システムが復帰するさ。そうすればラッキー!・・・などといったような期待感がいま日本を包んでいるようだ。それは果たして現実となるのだろうか。
後は祈るだけ
昨日18日はUstreamで原子力資料情報室の記者レクをライブで見た。原子炉の設計者である後藤政志氏と田中三彦氏が、今何が起きているかについて説明してくれた。とてもわかりやすかった。
1号機と3号機では圧力容器に破損が生じている可能性があり、冷却できなければいずれメルトダウンが始まる。2号機では下部の圧力抑制室に破損が生じているので、海水を注入しても抜けてしまい、こちらもいずれメルトダウンが始まる。いずれも冷却システムが復帰しない限り最悪の事態が避けられないという見通しだった。4号機の使用済み燃料はかなりの量になることもわかってきた。
この原発問題、今日からの3連休が山だという。後は祈るばかりだ。
(大輔)