映画に魅せられた人々

白鳥あかねさんはわれわれ「KAWASAKIしんゆり映画祭」の輝ける代表だ。私が初めて「しんゆり映画祭」のボランティアになった2001年、当時はNPO組織でなく任意の実行委員会だったが、白鳥さんは委員長だった。「白鳥あかね」という名前に「三井リフォーム」のCMで白鳥麗子役を演じていた宮沢りえをイメージしていた私は、その姿を初めて見たとき失礼を恐れずに言えば "ぶっ飛んだ"。
委員長として新ボランティアの前に現れたのは、どう猛な土佐犬のような女性だった。

1932年に生まれた白鳥さんは、近代映協を経て1955年、23才のとき、日活撮影所に入所した。なぜ、映画の世界を目指したのか、詳しく話を聞いたことがある。それは、いまから2年前、白鳥さんが川崎市市民賞を受賞したときの事だった。ご本人から「白鳥あかね物語」VTRを作成してほしいと依頼され、スチール構成で20分ほどの作品を作成したとき、その半生の聞き取りを行ったのだ。

そのときの話によると、白鳥さんは大学は早稲田大学の仏文科に入学し、最初は外交官を目指していたそうなのだが、当時フランス映画に夢中になり、新宿の名画座に通い詰めるうちに、映画の世界で働くことを夢見るようになったそうだ。日活撮影所に就職した後は、全盛期の日活で斉藤武市監督や今村昌平監督などのスクリプターとして活躍するが、1970年代後半になると映画産業は衰退し、日活はロマンポルノを制作するようになる。まわりの人々が退社していくなかで、白鳥さんは日活に踏みとどまった。

ロマンポルへ転進した日活で白鳥さんは一人の監督と共に仕事をしていくことになる。映画監督・神代辰巳(くましろ たつみ)。白鳥さんと神代はその後17本の作品でスクリプターと監督としてコンビを組んだ。白鳥さんは、神代の映画のなかでは『恋人たちは濡れた』が特に好きだという。この映画のなかの主役・大江徹が中川理絵から「みっともないね」と言われ、「みっともないの嫌いじゃないよ」と言い返すセリフは、神代監督や白鳥さんの当時の心情を反映していたという。

このようななかで、働き続けてきたので、白鳥さんは、何をするにも胆が座っている。映画祭の委員長をしていると色々難しい問題に直面することがあるが、そのたびに白鳥さんは「映画祭のドン」として解決し、映画祭の中心として存在し続けてきた。

私は、そんな、白鳥さんが一度だけ動転したのを見たことがある。それは数年前のしんゆり映画祭の「白鳥あかねの映画人生50年」で、あるロマンポルノに出演した女優がゲストとして出演し、その打ち上げを近くの中華レストランで行ったときのことだった。当時の日活の映画監督とロマンポルノ女優のラブロマンスが話題になった。そのとき白鳥さんは「亡くなったうちの旦那(白鳥信一監督)にはそんな浮いた話はなかったけれどね」と言った。すると同席していた元女優さんは口を開いた。

「いいえ、私、白鳥監督からミンクのコートを貢いでいただいたことがあります」

その瞬間白鳥さんは大きくのけぞり、「そんなはずはない!」と叫んだ。白鳥さんにとってその元女優の言葉は信じられないものであったに違いない。それは、いつも映画祭で沈着冷静な態度を崩さず、いつもどっしり構えている白鳥さんとは別人だった。しかし、私はその白鳥さんの姿に亡くなった夫と映画に対する愛を感じた。

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読売ランド前駅近くにあるミニシアターの支配人である箕輪克彦さんと知り合ったのは、私が脳出血のリハビリ病院から退院し新百合ヶ丘に引っ越してからすぐ、2000年の春頃だったと思う。


当時箕輪さんは「新百合ヶ丘に市民映画館をつくる会」の代表格だった。代表格という意味は元々代表だったらしいのだが、自己主張と個性が強くあまり人と折り合って協調していくことが上手でない彼は代表を退くことになったようだった。


私が「新百合ヶ丘に市民映画館をつくる会」に入会したときは、しっかり者の女性・Kさんが「代表代行」を務めていた。箕輪さんはこの会の中心人物であるにもかかわらず、口の悪い女性会員から「くそ箕輪」と呼ばれていた。しかし、この「くそ」には愛情の響きがあった。みんな箕輪さんを認めていたからこそ、「なんで、そんなことも分からないの」と愛憎のこもった気持ちで「くそ箕輪」と呼んでいたのだ。

 

組織運営は下手な箕輪さんだったが上映作品を選ぶセンスはずば抜けていた。日本の時代劇オペレッタ映画『鴛鴦歌合戦』を熱心に語り上映したのは彼の功績だし、2000年から始まった宿敵「しんゆり映画祭」の野外上映に乗り込んで、夜空のもとで『遠い空の向こうに』という映画を上映し、観客の喝采をあびた。アメリカの炭坑町で宇宙を目指す少年たちの話は、星空の下、野外上映に集まった少年少女や元少年少女たちの心を捕らえた。

 

しかし、箕輪さんの企画する上映会の観客動員は惨憺たるものだった。よく借りた定員1010人の麻生市民館に100人動員するのも見たことはなく、いつも20~30人くらいの観客しか呼べなかった。打ち上げではいつも「誰もわかってくれない。いい映画なのになー!」と悪酔いするのが常だった。今から振り返ると広報/宣伝らしきことをあまりやっていなかった。せいぜい駅前でビラをまいたり、ビラを掲示板にはったりするくらいのことしかしていなかったから、客が集まらないのは当然だった。

 

私が「新百合ヶ丘に市民映画館をつくる会」に入会してから1年もたたないころ、箕輪さんは突然「新百合ヶ丘に市民映画館をつくる会」を解散して、読売ランド前駅近くに自分の映画館をつくると宣言した。噂によれば、箕輪さんは地主の息子で親の遺産で映画館をつくるらしいと聞いた。それは「筋」としては正しいことだし、「新百合ヶ丘に市民映画館をつくる会」は箕輪さんがつくった会なので、誰も文句を言わず従い、多くの会員は当時活動が盛り上がりつつあった「しんゆり映画祭」に活動の場を移した。私も箕輪さんに出資する金もなく、「しんゆり映画祭」に活動の場を移した。

 

「ザ・グリソムギャング」で箕輪さんは、孤高の"怒濤の進撃"上映を開始した。それは「ザ・グリソムギャング」のホームページで過去の上映記録をみていただけば、分かる。「痴漢電車」シリーズの上映から原田芳雄や石橋蓮司をゲストに呼んだ黒木和雄追悼上映まで、よくこんなマニアックな上映が続いたものだ」と驚かされる。

 

客席はたったの21席。ここで箕輪さんは仲間たちにも支えられながら特異な映画空間を作ってきた。しかし、先日フェースブックで箕輪さんの文章を読んでいたら、この愛すべき映画館も終わりに近づいていることが書かれていた。先日「アクション・シネマ・コンペティション」に出品された映画を観にザ・グリソムギャングに行った折りに聞いてみたところ、あと2年くらいで閉館するかもしれないという話だった。

 

そのとき思った。私も「しんゆり映画祭」で今は亡き野々川千恵子さんらと悪戦苦闘してきたが、箕輪さんがこの映画館で戦ってきた苦労とは比べものにならないだろうと。ザ・グリソムギャングの快進撃はこれからも続く!みんな、この映画館に足を運べ!

 

55日~6 北公次さんメモリアル上映会「急げ!若者」 

512 ザ・グリソムギャング10周年記念特別企画③ "70年代を生きた映画と人々"Vol.1 「ナッシュビル」&「ORANGING'79

519 ザ・グリソムギャング10周年記念特別企画③ "70年代を生きた映画と人々"Vol.2 「天国の日々」&「東京白菜関K者」

520 4回副音声付上映会 「天国の日々」

526 中島丈博、「祭りの準備」を語る

527 「その男、エロにつき アデュ~!久保新二伝」生コメンタリー付上映会

61 映画ファン感謝デー ワンドリンク付上映会 「妹」

62 ザ・グリソムギャング恒例"Wアンヌバースデー上映会" 「妹」&「ザ・スパイダースの大進撃」

63 井上順特集 「ザ・スパイダースの大進撃」&「JAZZ爺MEN」

69  "第十七回寄席 愚離粗無亭"俺たちゃ腐れ縁の巻"「マイキー&ニッキー」

610 ザ・グリソムギャング10周年記念特別企画③ "70年代を生きた映画と人々"Vol.3 「マイキー&ニッキー」&「ハッピーストリート裏」

616日~17 長谷部安春監督メモリアル上映会2012 「あぶない刑事(デカ)」

623日~24 「映画に逢いたい!」出版記念 「モスラ対ゴジラ」

630 

71 映画ファン感謝デースペシャル2本立て 「セコーカス・セブン」&「注目すべき人々との出会い」

77  5回 副音声付上映会(貸切)

78 ザ・グリソムギャング10周年記念特別企画④ 映画監督利重剛特集Vol.1 「ザジ ZAZIE」&「教訓Ⅰ」&「Empty night

714 復活!佐野和宏特集

716 ザ・グリソムギャング10周年記念特別企画④ 映画監督利重剛特集Vol.2 「BeRLiN」&「レンタチャイルド」&「見えない」

72829日日 '今年もクゥと会える!公開5周年記念'「河童のクゥと夏休み」上映会2012

84 祝!ザ・グリソムギャング10周年記念マンスリー① 「大脱走」他(予定)

85 6回副音声付上映会 「大脱走」(予定)

811 祝!ザ・グリソムギャング10周年記念マンスリー② 「ウエストサイド物語」他(予定)

812 7回副音声付上映会 「ウエストサイド物語」(予定)

818 祝!ザ・グリソムギャング10周年記念マンスリー③ 「いちご白書」&「ハロルドとモード/少年は虹を渡る」

91日~2 園子温監督最新作「希望の国」公開記念 「恋の罪」上映会

922日~23 工藤栄一監督十三回忌特集① 「十三人の刺客」

929日~30 工藤栄一監督十三回忌特集②・公開30周年記念・追悼神波史男先生 「野獣刑事(デカ)」ニュープリント版上映会(予定)


ザ・グリソムギャングのHP


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由田(よしだ)さんは「しんゆり映画祭」の初期のころからのボランティア・スタッフだ。私が「しんゆり映画祭」に参加し始めたころから勝手に彼女とは「馬が合う」と思っている。彼女の特徴は、とにかく映画をよく見ていることだ。その年の上映作品を決めるプログラム会議が始まると、とにかく映画館に足を運んで、スクリーンでその映画を見る。1日に3本のはしごも厭わない。

由田さんの名を高めたのは、第4回しんゆり映画祭で『萌の朱雀』を上映したとき仙頭(河瀬)直美監督を囲んでのトークを企画したときの行動力だ。私は当時まだ映画祭に参加していなかったので、伝聞で聞いているだけなのだが、彼女は『萌の朱雀』の舞台が生まれ故郷の奈良であるということで奈良に帰省し、この映画の現場を丹念にリサーチしたという。そして、上映後の監督を囲んでのトークでは、監督よりもしゃべりまくっていたらしい。現在『39窃盗団』の公開を前にしている押田興将さんが「上映後のトークで監督よりしゃべる司会を初めて見たよ」とからかっているのを聞いたことがある。

またゲストには記録のためにインタビューし、それをVTRに残しておくのだが、「しんゆり映画祭10周年ビデオ」を作ったとき、私は由田さんの河瀬監督へのインタビューを見た。かすかな記憶しかないのだが、河瀬監督に「映画作りは大変ですか」というようなことを聞いた由田さんが、河瀬監督から逆に「映画祭も大変なんでしょう」と言われた瞬間に嗚咽し始め、インタビューを中断せざるをえなかった映像を見た。それを見て「テンションが高いなあ」と感心した覚えがある。

また、由田さんのテンションの高さを物語るエピソードはほかにもある。自分の前世はフランス人と堅く信じ、一時期中学生の娘に自分のことを「お母さん」でなく「キャサリン」と呼ばせていた時期があると聞いたことがある。「キャサリン」は英語人名のような気がするので確かな記憶ではないのだが・・・。

そんな由田さんが「しんゆり映画祭」を離れていた時期がある。野々川さんが委員長の時代だと記憶するが、映画祭の活動にのめり込むあまり、子育てや仕事と両立しないと感じたためらしかった。
そのときの委員長の野々川さんの感情的動揺は見ているのも辛かった。何人かのボランティアが多摩川の川岸で由田さんとのお別れの「焼き肉パーティー」を企画すると、「なんで私に知らせずにそういうことをやるのよ!」と映画祭の「シネマハウス」でボロボロと泣き始めた。「お別れ会」の前日「笑顔で送り出すのが委員長のすべきことなのではないでしょうか」とメールすると当日笑ってやってきた野々川さんはさすがだったが、由田さんを失うことの大きさに、心のなかは泣いていたはずだ。
それから、2年ほど由田さんは、映画祭の当日には姿を見せたが、活動は休んでいた。

ただ、2年ほど前、「山形国際ドキュメンタリー映画祭」に一緒に行かないかと誘ったところ、他の映画祭メンバーと一緒になって山形に来て、映画祭居酒屋の「香味庵」で「芋の子を洗う」ような混雑のなかで一緒に楽しく飲んだ覚えがある。

その翌年3月、野々川さんが不慮の死をとげた。すると、由田さんは上映作品を選ぶプログラム委員会の中心メンバーとして復帰した。その行動力と統率力は抜群で、「さすが由田さん!」と感じた。

ボランティアというのはつくづく難しいと思う。責任はないが、色々なことを続けていくなかで責任が生じてくる。より高次元なことを目指していくと、「ボランティアですから」と無責任ではいられらくなる。私もそのことを考え続けているが、由田さんも考えていると思う。

(三浦規成)
倉岡明子さんは、かつて30年以上前アテネフランセ文化センターで各種事業を"大車輪"で主宰されていた女性だ。彼女の一番の功績は、上映会の企画上映を行うだけでなく、現在の映画美学校の"さきがけ"となる「映画技術美学講座」を、現場のトップクラスの人材を引っ張ってきて開講したことだ。映画監督からは寺山修司、土本典昭、金井勝、カメラマンからは大津幸四郎、編集マンからは浦岡敬一などを講師としてアテネフランセに連れてきて、実習講座を開くだけでなく、新宿ゴールデン街にまで連れていき、講習生の人生相談にまで付き合わせていた。

私も講習生の一人として初等科のクラスに、1年間通っていたが、その推進力は倉岡さんの情熱だった。彼女はそれに飽きたらず、講座の卒業制作の『東京クロム砂漠』に自らかかわり、その後「アテネフランセ文化センター解体宣言」という文章を残して"アテネ"を去り、『六ヶ所人間記』、『夏休みの宿題は終わらない』など核燃料サイクル立地や核廃棄物をテーマにした映画制作に突入していった。

ポレポレ東中野で見た『六ヶ所人間記』の画面のなかで、倉岡さんはあるときは吹雪のなかで、またあるときは汗まみれになって地元のお年寄りにインタビューしていた。「大変な苦労をされたんだな」と頭が下がった。フランス語も話せたから都会で"格好よく"生きていけたかもしれないのに、やはり「映画に魅せられてしまった」んだろうなと、画面のなかでどんどん「肝っ玉母さん」に変貌していく倉岡さんを見ながら思った。

彼女はとにかく"格好いい"女性だった。美女でスタイルがよく、いつもアテネフランセ文化センターの事務局で、自分の企画を邪魔する相手と戦っていた。フランス大使館経済部で働いていた彼女はフランス語にも堪能で、来日したフランス映画人と流暢なフランス語で会話していた。そんな彼女は講習生の憧れの的だった。彼女は「映画技術美学講座」の男性スタッフの一人だった山邨伸貴さんとその後結婚した。

6年ほど前、「川崎市アートセンター」の指定管理者を目指していた私は、彼女に手を貸してもらえないかと、八方手を尽くして彼女を捜した。最終的に連絡先がわかり、メールのやりとりをすることができたが、彼女は色々な意味で疲れていて手を貸してもらえる状況でないことがわかった。

今年3月ポレポレ東中野の「チェルノブイリ25年特集上映」のビラを見ていたときビラの文字に思わず目がとまった。『六ヶ所人間記』と『夏休みの宿題は終わらない』のトークゲストに『倉岡明子』の文字があったのだ。必ず行かなければならないと思った。
『六ヶ所人間記』のゲストには欠席されたが、『夏休みの宿題は終わらない』にゲストとして現れた倉岡さんは60歳を過ぎられているはずだったが、35年以上前の倉岡さんとまったく変わらなかった。原発について厳しく怒り、これからも戦っていくと宣言された。
ある意味、川崎市アートセンターに誘わなくてよかったと思った。彼女は日本における「反原発」の運動のなかで大切な存在になっていくだろう。ポレポレ東中野の玄関先で「頑張ってください」と挨拶して「反原発」をこれからの人生語り続けるだろう倉岡さんに別れを告げた。

(三浦規成)
 第1回で野々川千恵子さんのことを書いたが、個人のプライバシーに触れることを書くのに、あまり配慮せずに書いていたことは否めない。この1か月色々考えてきたのだが、今後書いていくためには、自分の恥ずかしい過去のことを書いておく必要があると思った。それをやってから、人の個人的な映画史を書いていきたい。

 

 中学生時代から土曜日午前中の授業が終わると渋谷の東急名画座に駆けつけるなど映画好きだった私だが、映画好きが深まったのは高校時代だった。

高校1年のとき、馬鹿な教頭が文化祭の準備をする生徒をバリケードを作っていると勘違いして警官隊を導入し、生徒が世田谷警察に連行させたのをきっかけに、激怒した生徒が本当にバリケードを作り、私の通っていた高校は泥沼の高校紛争(闘争)に入り込んだ。記憶では半年近く授業が行われることはなかった。高校に行ってもホームルームと自習が続き、午後下校してもやることがないので名画座通いが始まった。

 そして文化祭のとき、同じクラスのOがアラン・レネの「去年マリエンバートで」を芝居でやろうと言い出した。台本はOと私で書いたが、あの難解な映画を脚色する力は私たちにはなく、アラン・ロブ=グリエの原作を引き写しただけだった。不安げに付いてくるクラスのみんなに対して我々が悩んでいたら話にならないとOと私は「この作品はすごい」と訳も分からずに言い放っていた。実は二人とも主役に抜擢したSに淡い恋心を抱いていた。デルフィーヌ・セーリグに似た彼女を主役にすれば、毎日長い時間彼女と会える。それがこの芝居を始めたモチベーションだった。まるで、トリュフォの映画の一コマのようだった。


 次により深く映画の世界に踏み込んだのは大学4年のときだった。

 大学で映研に属し、8ミリ映画を作ったり、現在シナリオライターになっている早稲田映研の加藤正人と自主上映等行っていたりしてたが、映画と関係なく普通に就職するつもりだった。荻窪大学の仲間たちが8ミリ映画をつくっていたがあまり関わる気にはならなかった。「多分平凡な人生を送るんだろうなと」思っていた私を大きく動かしたのは一枚のビラだった。そこには、「映画技術美学講座初等科受講生募集」とあり、「映画技術者の養成をめざすが、技術を教えるのではなく、技術教育を通して映画の本質を理解していただく」と書いてあった。担任講師に寺山修司の名前を見た私はすぐに受講を決めた。「映画と関係ない人生が待っているとしてもこの1年だけは映画に浸ろう」と収監前の罪人のような気分だった。


 講座は平日は18時~21時、土曜は13時~21時とハードなもので、講師も一流の映画人がその技術を教えてくれた。事務局にいた倉岡明子さんの人脈が大きかった。私は大学の授業よりもこちらの方に熱心に通った。担任の寺山修司さんも真剣に取り組んでいた。演技の講座では私など自分でも恥ずかしい演技しかできなかったが、「いまの演技は、ここが悪かった」と本気で叱ってくれたし、受講生の一人が学生運動の挫折に悩む人物をシナリオに書いたところ「三島由紀夫はそんな悩みなど海でくたくたになるまで泳げば忘れてしまうと言っている」と講師とは思えぬ激しさで語気荒く論難した。秋になって講座が終わって新宿ゴールデン街で一緒に飲んだとき、就職のことを話すと、「創作の世界の人生も面白いかもしれないよ」とぼそっと呟かれた。その一言で決まっていた保険会社の内定を断ってNHKを受験した。

 

 その次は、脳出血のリハビリ後の「しんゆり映画祭」との出会いだった。

 就職後は自分の時間の99%を仕事であるドキュメンタリー番組の制作のために費やしていたが、一度死にかけて家族も地域も顧みない生活は間違っていたと真剣に反省した。リハビリ病院からの退院を機会に富士見台から新百合ヶ丘に引っ越した。引っ越した新百合ヶ丘は今と比べると緑のたいへん豊かな環境だった。毎日リハビリのため,妻と散歩していたが、ある日、シマウマのかぶり物をした奇妙な集団とすれ違った。そしてすれ違いざま一枚のビラを手渡された。そこには「しんゆり映画祭」と書いてあった。


 その後色々な経緯の末(第1回に記述)しんゆり映画祭のボランティアスタッフになったが、そこには面白い人々が集まっていて毎週週末に行っていた活動は本当に楽しかった。「仕事以外にこんな世界があるのか!」と目を開かれる思いだった。まだご健在だった今村昌平監督の家にも遊びに行った。「脳出血になったおかげでしんゆり映画祭に出会えました」と言うと、人をからかうのが好きな今村監督は「それは不幸な出会いでしたね」とつまらなそうに呟いた。


 しんゆり映画祭には武重邦夫、白鳥あかね、野々川千恵子、千葉茂樹という歴代委員長がいるが、みな「映画に魅せられ」、映画に人生を賭けた人々だ。彼らは映画祭に市民ボランティアという制度を導入し、新百合ヶ丘に住む人々を皆「映画に魅せられた人々」にしようと画策した。

 そして私もいま映画に魅せられている。

(三浦規成)
 

 「映画」について何か書くようにということなので、連載としては「しんゆり映画祭」周辺の奇人・変人たちについて「映画に魅せられた人々」というシリーズタイトルで10回ほど書きたい。また観た映画についても不定期に書いていきたい

●映画に魅せられた人々−第1回 野々川千恵子
 
 「ののさん」こと野々川千恵子さんのことを思い出すと、今でも彼女が今年3月4日に亡くなったことが信じられない。「しんゆり映画祭」委員長時代、「川崎市アートセンター」映像ディレクター時代の彼女は、圧倒的なリーダーシップで我々を引っ張っていた。あまりの強引さに離れていったメンバーも何人かいたが、そのメンバーたちも、彼女の死が明らかになったとき、私に泣きながら電話してきた。野々川さんが映画に魅せられていたように、私たちも野々川さんに魅せられていた。

 野々川さんは、学生時代から映画が好きだったわけではない。というより自分をインスパイアしてくれる男性にすぐ惚れる女性だったというし、相模原戦車搬出阻止闘争に燃え、川崎市議会議員にもなる政治人間だった。
 去年、山形国際ドキュメンタリー映画祭に行ったとき、彼女も山形に行っていた。ある夜映画「ナオキ」の主人公・佐藤直樹さんも交えて飲んでいたら"ののさん"さんと"ナオキさん"は、相模原戦車搬出阻止闘争中、ある米軍基地の前で至近距離でピケを張っていたことが会話のなかで判明した。「私たちは中国・天安門事件の"戦車を止めた男"の前に、日本でベトナムに行く戦車を止めたのよ」と二人は肩を組んで乾杯を繰り返した。それは感動的だが、気色の悪い光景だった。

 市議会議員をある事情で辞任した彼女は、なぜか映画の世界に突き進んだ。ある事情というのは川崎市のある幹部との"不倫"だが、彼女はその過去の"不倫"を映画祭委員長になっても隠そうとしなかった。むしろお酒を飲んだとき、自分の過去の生き様として語ることさえあった。
 映画の世界の師匠として師事したのは、しんゆり映画祭初代委員長の武重邦夫さんだった。武重さんがまだ日本映画学校でゼミを持っていたとき、40歳を過ぎた野々川さんは、日本映画学校に入学した。
 今村昌平プロダクションの"番頭"だった武重さんも、野々川さんのなかに、資質を見いだし、彼女もそれに応えて映画祭ボランティアのなかでもめきめきと頭角を現した。
 私がしんゆり映画祭のボランティアになった4年後、武重元委員長の指名で野々川さんは、映画祭実行委員長となった。新ボランティア説明会で彼女は自分たちがいかに映画と映画祭が好きでのめり込んでいるか泣きながら語った。

 私が映画祭に参加したきっかけも野々川さんだった。
 2000年の「しんゆり映画祭」のオープニング上映は『アラビアのロレンス』だった。「あの映画をもう一度大きなスクリーンで見たい」と考えていた私は、開場の3時間前の朝7時にワーナーマイカルに向かった。脳出血後リハビリ病院から退院してあまり時間がたっていなかったので、妻から「ゆっくり行けばいいじゃない」と言われたが、いい席を確保したかった。
 ところがワーナーマイカルのあるサティの周辺には誰もいなかった。その時は「まあ3時間前だからしょうがないか」とマクドナルドで時間をつぶしていたのだが、会場1時間前になってサティの入り口に再び行っても10人近い客がどこに並んでいいのか分からずウロウロしているだけで、映画祭関係者の姿は見えなかった。「この映画祭は客を迎える"ホスピタリティ"がない」。私の心のなかで怒りが燃えだした。映画祭のメンバーによる行列整理が始まったのは開場30分前になってからだった。
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 上映終了後私は映画祭のメンバーらしき女性に「おかしいじゃないか。『アラビアのロレンス』ほどの映画をオープニング上映するなら、もっと早い時間から会場整理するべきだったのではないか」とクレームをつけた。
 すると相手の女性は「すみませんでした」と言ってにっこり笑い「ただ、そこまで言われるなら、来年からあなたがそれをやっていただけませんか? それとも口だけですか?」と挑戦的な口調で言い放った。

その女性が野々川さんだったと記憶している。彼女との関わりで「しんゆり映画祭」に魅せられ、映画祭から離れられないメンバーは私以外にもたくさんいる。みんなを残して一人で去っていくなんて"ののさん"勝手ですよ!

(三浦規成)