この人を語ろう

松戸の田舎高校生だった頃から本格的に映画を観始め、浪人生時代に至っては8月からは殆ど予備校に行かず映画館通いの日々。雨が降ると学校をサボっていた私を知る家族は、毎日予備校に通う私を「心を入れ替え真人間になった」と、思ったことでしょう。

そんな暗闇で出会ったカッコいい兄貴が、原田芳雄その人でした。

日芸の3年生時、放送学科同期の学生たちから「芸術祭のスタジオ2時間番組をやってくれ」と言われ、当時1年生だった大輔に「"番組作れ"だなんて自信ない...どうしよう」と相談。
「自分の好きなもの思い浮かべてみろよイケチン」(何でタメ口?)
好きなもの→原田芳雄→番組やる!単純明快な答えの出し方でした。
速攻、大輔と二人で活動開始。

先ずは、原田さんにコンタクトをとるため、TBSアナウンサーの林さんに連絡先を教えていただき、「出演交渉は君たちで」と。(そりゃご尤も)
直ぐにマネージャーの富田さんに連絡しお会いすることが出来、どうにかして出演してもらいたい私は "どれ程原田芳雄が好きか""日本映画界にかけがえの無い原田芳雄とは"等など熱く喋り捲り。(あぁ~恥かしい)

必死の形相の私に、富田さんは根負けしたのか?「原田本人に交渉しなさい」と。
ありがたいことに原田さん宅を訪問する約束を取り付けました。勿論富田さんの同席もお願いしております。(第一段階クリア!)
手土産は何が良いかとお訊ねしたら
「何もいらないよ。でも持って行くとしたらバーボンがいいね。それもアーリータイムズを。今、それしか飲まないから」
それはもう優しい富田さんが、取って置きの情報を教えて下さいました。
それではと酒売り場で買う段になって「アーリータイムズ安すぎるね。I・W・ハーパーだったかしら?どっち?」
大輔と迷いに迷って同じメーカーの価格が高いI・W・ハーパーを購入したのです。


さて東北沢のご自宅に伺い、葬儀の際に飾られていた「龍馬暗殺」の懐から長ピストルを出しているあの特大パネルが置かれている洋室に通されました。「一緒に飲もう」と目の前にあるのは、安いアーリータイムズ...。(しまった...)

先日は富田さんを前にしゃべり倒した私でしたが、憧れの原田さんを目の前にして言葉少な。原田さん主導で多岐に亘る話をして下さいます。富田さんとの掛け合い漫才みたいな「龍馬暗殺」撮影時の支払うべきお金が全く無い状態で借金取り(すみません)債権者に「無い袖は振れない」の一点張りで切り抜けた話など。

「ところで君は何をするの?」いよいよ本題突入。
「企画立案、演出して当日はブースから指示を出します」(きゃっ!生意気)
「偉そうに」と原田さんにちゃちゃを入れられ真っ赤になった私でした。
その後、何度も訪問しお話を伺ったのは大輔の記述にあるとおりです。

当日は、芸術祭に訪れた客をスタジオに入れ、3部構成の番組を3台のTVカメラが捉えます。

1部はインタビューの音源を流しながら、写真撮影したパネル10数枚をインサートしていくというもの。
長時間に亘って録音したインタビューは全て興味深く、どれもが捨てがたいので泣く泣くタイム枠にテープ編集したものです。黒木和雄監督について語っている時「よ~い、スタート!」「カット!」の声が大きくて音量最大に振れていましたっけ。
また、自宅近くで撮影した写真にしても、カメラを前にした佇まいの凄さ・圧倒的なオーラに「おぉ~!!」と身震い。「あぁ~原田芳雄だ!」
一方、スチールカメラマンを担当してくれた友人は、言っている本人も気付いていないだろう小声で「凄い!どこをどう撮っても凄い!」を連発していました。

2部は原田さんとTBSアナウンサー林美雄さんとの対談。
日本映画をこよなく愛し、独自のセンサーで捕らえた映画・音楽・芝居など多方面に渡って紹介し続ける林さんは、原田さんを熟知している方。
流れるように、時に熱く貴重な話を引き出してくださるプロの会話に聞きほれてしまい、カメラマンに指示を出すタイミングを忘れてしまうほど。(恥)

3部は原田さんのギター弾き語り。
歌のラインナップについては事前にお願いしていたのですが、「選曲は当日の気分でやりたい。自分に任せて」と。「でも、リンゴ追分だけは是非ともお願いします」とすがりつく私。
当日、約束どおり「リンゴ追分」他数曲によるミニコンサート。あの野太い朗々たる声が日芸のスタジオに響き渡る幸せ・心地よさにブースで涙ぐんでいた生意気な小娘。

番組も無事終了し「些少ですが」と、御礼を差し出したが受け取らず「打ち上げに使ってくれ」
はい、ありがたく使わせていただきました。

学生の遊びに本気で付き合ってくださった原田さん。心根の優しい原田さんを忘れられません。
「野良猫ロック 暴走集団 '71」での長どてら姿が強烈だったので、後日祖母手縫いのどてらをお渡ししたら、しっかり着て下さいました。

感謝の念をこめながら35年前のことを思い出しております。

(持塚弓子)

あまりにも早い早すぎる死でした。
「大鹿村騒動記」の舞台挨拶時の姿を見て、もう新作の映像は無いな...と思いましたが...。
7月21日・22日 東京青山葬儀所でとり行われた通夜・告別式に参列いたしました。

連日の暑さは何処に?と言うほど涼しい天候の中での通夜は、原田さんのブルースが流れ静謐な空気感が漂っていました。記帳所にて参会者カードを記入し、それを手にしたまま並んでおりますと、驚くことにそのまま一同テント席に通されました。

天台宗の読経が始まり10分ほどして、最後の出演映画となった「大鹿村騒動記」のメガホンをとった阪本順治監督による弔辞。
「兄であり父のような存在の芳雄さん。存在が大きすぎて叶わぬ事でしたが、実は私は友人になりたかった・・・」
どうしようもない喪失感と悲しみに耐えきれぬように、途切れ途切れに悔しさをぶつける様な語り口の監督でした。

再びの読経のなか焼香が始まり、一般参列者も室内に招き入れられスクリーンに見立てた白い花に囲まれているる原田さんと対面。ご本人も気に入っていたと言う遺影の下には、"I・W・HARPER"ならぬ飲みかけの"I・W・HARADA"ラベルのボトルがあり、祭壇右側には、赤いタオルが掛けられたマイクスタンドと愛用のギターが置かれています。このギターでプカプカを歌っていたんだなぁ~。

奥様・喧太さん・麻由さんが一人ひとりにご挨拶の対応をしてくださります。

御会葬御礼
故 原田芳雄儀に際しましては、ご多用中にも拘りませず御会葬を賜わり、又丁重なるご厚志をいただき誠にありがとうございました。
生前のご厚情を深く感謝申し上げますとともに、これからも変わらぬ御交誼を賜わりますようお願い申し上げます。
また、今後もスクリーンの中の原田芳雄ともお会いいただけたら幸いです。
早速お伺い致しご挨拶申し上げるべき処略儀ながら取り急ぎ書面をもって御礼申し上げます。    

            喪主 原田喧太
               原田章代
               原田麻由




告別式開始10分前に会場に到着すると、昨夜とは変わって【ファン焼香所】が設置されており150人程の方が、正面のボード「ありがとう 原田芳雄」(原田芳雄部分は直筆サイン)と白い花・大きなポートレート3枚の前に大人しく並んでおりました。
「龍馬暗殺」の懐から長ピストルを出している特大パネルが右側。
左側には白いハットを被ったダンディーな原田さん(帽子ではなくやはりハットとしたい)。
そして遺作となった「大鹿村騒動記」の一場面、椅子に座っている原田さん。

会場にはコンサートの音源が流されており、「今日は来てくれてありがとう!元気に歌い続けます」の声も入って...涙。居酒屋原田は日本酒『夜明け前』を「ありがとう 原田芳雄」と印刷された紙コップにて振舞われ、捨てるのも淋しいので紙コップはそのまま持ち帰りました。

告別式の弔辞は2名の石橋。元日本テレビの石橋冠氏と俳優の蓮司さん。

冠さんの弔辞は15分にも及び、初めての出会いは1970年のデモだったこと。二人であちこち珍道中したことや、飛行機が苦手なくせに「沖縄に行こう」と言い、結局行き先は宮崎になったこと。旅先で大喧嘩しながらも、車の運転が出来ない原田さんを長時間乗せて帰ったこと。日本映画の撮影で中継車やVTRロケを使うという発案は原田さんによるものという、貴重な話等などが続きます。

一方、蓮司さんは・・・
「死んだなんて冗談だと言って欲しい」
「二人で一緒にやった映画は全てうまくいったな」
声に張りが無く聴き取りにくい箇所もあるほど憔悴していらしたかと。

ファン焼香所でお焼香を済ませた私は、図々しくも屋内に潜り込み、関係者に混じって2度目のお焼香。おまけに出棺最後のお別れでオダギリジョーさんの横でお花まで入れてきました。
「朝日の当たる家」「リンゴ追分」「横浜ホンキー・トンク・ブルース」「蒼い影」が流れる中、次から次へと最後のお別れが続きます。

喪主である喧太さんの挨拶。
オヤジの言った中で特に好きな言葉。
「こんな商売をさせてもらっているのだから、真剣に遊ばなければ失礼だ」
祭りごとが好きだったオヤジです。原田芳雄の役者人生に3本締めをお願い致します。


「よぉ~」で会場に鳴り響く3本締めは凄かったが、それに引き続いた鳴り止まぬ拍手はそれにも増して感動的でした。 
 
「愛の賛歌」で出棺。
斎場には見送る人々のありがとうの拍手がいつまでも続いていました。
俳優の原田芳雄さんが7月19日に亡くなった。高田純さんに続いて旅立たれてしまった。71歳。役者としてまだこれからが楽しみだったのに残念だ。荻大ノートで「この人を語ろう」のカテゴリが賑やかになるのはうれしくないことだ。だがやはり原田さんのことは語っておきたい。

僕の手元に2本のカセットテープがある。35年前、日芸時代に学祭で原田芳雄コンサートの制作に参加したときの取材テープだ。2時間以上のインタビュー。当時はまだマネージャーの富田さん(龍馬暗殺のプロデューサーで映画評論家の夏文彦さんでもあった)もご健在で、みんなで撮った龍馬暗殺のパロディ写真も一緒に保管してある。これらの音源や写真はいずれこのサイトで公開したいのだが、この時のインタビューは実に印象的だったので、少し書いてみたい。

まず、「赤い鳥逃げた?」で見せたアウトローのイメージに憧れた僕にとって意外だったのは、原田さんが「あの映画は嫌いなんだよ」と言ったことだった。「兄貴」と呼ばれたり、「あ、白髪」なんて言われるのが嫌だった。確かに時代を遡って見直した数々のアウトロー映画で、原田さんは若き反逆者だった。例えば「反逆のメロディ」での最初の台詞はこうだ。「淡野組は解散したんだ。兄貴ヅラはよしてくれ!」。つまり時代やしがらみに取り込まれていく「兄貴たち」に反逆する役どころだったわけだ。それが「赤い鳥」では自分が「兄貴」になってしまった。それが嫌だったのだ。

もうひとつ、印象的だったのが「脇役志向」だ。インタビュー当時の最新作は「やさぐれ刑事」だった。だが主役よりも脇役志向が強かった原田さんは、「なんで俺が主役なんだよ」と現場で随分と監督にからんだらしい。楽屋で出番が来る前にアーリータイムスが1本開いてしまうほど飲んでいたという。役者として悩んでいた時期だったのだろう。テレビドラマで「和気一作」という役名で出演していたのもこの頃だったかもしれない。

それから、若い頃の話。そもそも最初は歌手になりたかったそうだ。憧れたのは美空ひばりだったとか。そう言えば原田さんの歌は、そのイメージから渋い低音かと思いきや、実はかん高い高音で歌うのが原田節だ。それは美空ひばりに憧れた青春時代と深く関わっていたのかもしれない。

当時、一番うれしそうに語った映画が「祭りの準備」だった。それは映画の出来についてとか、自分の役柄についてではなく、撮影中に体験したことが理由だった。舞台は土佐の高知、中村市。原田さんは彼の地に住み込んで撮影に臨んだ。俳優たちはひとりずつ別々の家に寝床を提供してもらった。土佐の住人たちは彼らを東京からやってきた有名な俳優さんとしてではなく、仲間として同等に扱ってくれたという。そのことに原田さんは一番感動していた。土佐での暮らし、そこで体験したすべてが彼をとりこにしているようだった。

アウトローとしては繊細過ぎるほど細やかな感性を持った原田さん。田舎の共同体が自分のような人間を受け入れてくれることへの感謝と感動を語っていた。あれから30年以上がたって、原田さんが「大鹿村騒動記」へと向かって行った原点がこの時の土佐での体験にあるのではないか、と僕は今想像している。遺作となった「大鹿村」を観て確かめてみたいと思う。

原田さん安らかに。あなたは最後までかっこいい「兄貴」でした。


皆さま

先日、高田純さんについてネットで検索していたら、かぜ耕士さんのブログに行き当たりました。

「キャンバスNOW」時代を中心にかなり長い文章を掲載されています。

http://redondonokaze.seesaa.net/

 

興味のある方は訪れてみてください。

(大輔)

 

皆様

三浦さんから以下のメールが寄せられましたのでご紹介します。

 

三浦規成@荻大です。

MIXIを見ていたら、知り合いのルポライター生江有二さんが次のような日記
を書いていました。荻大ノートへの転載を許可されたのでコピーして送ります。

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「牡丹亭と庵」というマイミクがいる。その姿がふっと消えてしまった。 

と庵=本名高田純は、脚本家として30年以上、オイラとの付き合いは35年近い仲になる。その実家にお邪魔し、6月25日に予定している「高田純を偲ぶ会」で流すVTR作りのための作品を借りてきた。

多数のテレビ用脚本があった。書きかけの脚本が3本あった。それ以外にもいくつか高田を指名して脚本依頼が来ていたという。

還暦を過ぎるとめっきり仕事の依頼が無くなる、というのが物書きの世界。オイラはまともに今、その風を受けて荒野に立っている感がある。が、高田は以前にも増して多忙になり、それが死を早めた一つの要因かも知れない。

小田原で映画関係者と密な打ち合わせ後、自宅のある大雄山線・岩原駅目指して電車に乗り込んだ。しばらくすると異様な胸苦しさを覚えたようで、
「体調がおかしいので、駅まで迎えに来てくれ」とカミさんに電話があった。
カミさんはすぐ、駅へ迎えに行ったが、肝腎の電車がなかなかやってこない。
すると前々駅で病人が出たとアナウンスがあった。あっと思ううちに線路と並行 して走る道路を救急車が飛んでいったという。

救急隊員、そして担ぎ込まれた救急病院の医師たちは、およそ2時間、心臓マッサージを施すなど、けんめいの救命措置がとられた。しかし、高田のいのちは蘇生しなかった。

これまでの10余年、高田は変調をきたす心臓の病と闘ってきた。バイパス手術なども3度おこなわれ、もう手術はいやだと口癖のように言っていた。酒も飲まず、たばこも最近はやめて、双子の孫をかわいがりながら脚本を書き続けていた。

それでも病魔は静かに高田をむしばんでいたのだろう。つねに持っていたニトロ錠も飲んだが、効かなかったようだ。4月21日のことだった。

4月23日、通夜。スポーツニッポン等にその死が載った。が、遺族は3月30日にも父親を亡くしており、翌日の告別式はわずかな近しい者だけが参列する密葬形式で執り行われた。

高田の書いた脚本は数多い。借りてきたものは女優美保純の名を高らしめた『ピンクのカーテン』にはじまり、神代辰巳監督と組んだ『恋文』『離婚しない女』。渡辺典子主演の『いつか誰かが殺される』渡部篤郎、萩原健一共演の『JOKER』等々、昨年放映された昼ドラの『熱血ニセ家族』も含めたものが10~15分に編集される。

しかし、20年近くに渡り映画化を進めた『六連発愚連隊』を始め、3冊の書きかけ脚本など、もう5年、生き長らえていれば作品になったであろうことは想像に難くない。マイミクての字さんは"戦死"と表現したが、戦死であると同時に、憤死であるとオイラは思っている。

ただ、つねに斜めに構え、皮相な対応をすると思っていた彼が、夫人のために壁用の土を郷里から運んで茶室を造り、孫の双子姉妹を熱烈にかわいがるなど、予想もしない生活を営んできたことを知って、少し驚いた。オイラたちには見えなかった側面が、家庭にはあったのだと思うと、穏やかに生きることを望んでいた、しかし、穏やかにはなれない職業であったのだと感じた。

人生は短い。ろうそくが燃え尽きる1本分もないのだと感じる友の死だった。

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生江さんは昔テレ朝の「トゥナイト」などにもよく出演したルポライターですが私とは新宿ゴールデン街「ふらて」で作ったラクビーチーム「ピンクエレファンツ」のチームメイトでした。

6月25日の偲ぶ会に出席したいとコメントしたところ

6月25日、午後4時~ 新宿「銀座アスター」
会費1万円(残ったら全額遺族へ)

というコメントが返ってきました。詳しい案内は私のもとに送られる予定ですので、出席希望の方は三浦までご連絡ください

とりあえず

 

(三浦規成)

われらが純さんが亡くなった。4月21日ご自宅に近い病院で、心不全だったという。63歳だった。まだ早い、早すぎる。

 

純さんは説明するまでもなく「歌う銀幕スター夢の狂宴」を主催した、日本映画スターファンクラブの主要メンバーの一人で、われわれ荻大メンバーにとって頼りになる兄貴分でもあった。ただ、当時は僕は個人的にそれほど純さんと話したり行動したことはなかった。なので当時の思い出話はほかのみなさんにお願いしたい。僕と純さんの付き合いはむしろ最近になってからのことだった。ここではそのことを書いておきたい。

 

数年前、ウィーンの事務所にいるときのことだった。何かを検索していた時に、純さんが当時やっていた「牡丹亭」というホームページに行き着いた。そこで純さんは、高橋明さんの「なかなかづくし」について書いていた。そこには「完全な歌詞がわからない」という趣旨のことが書いてあった。

 

ちょうどその時僕は久しぶりに銀幕のテープを聞いていたので、すぐに「なかなかづくし」の歌詞を書き起こして投稿した。それをきっかけにmixiでマイミクになり、メールのやり取りが始まり、やがて赤坂で30年ぶりにお会いしたり茶室に招かれたりといったお付き合いをさせていただくようになったのだ。再会のきっかけは「なかなかづくし」だったわけだ。

 

mixiでのコメントは「もう一花」が口癖だった。その通り、いくつもの企画が同時進行中で、構想を語って聞かせてくれたり、時には「飛行機の中で読んでよ」と大著の脚本を手渡してくれたりした。そのなかのひとつ「遥かな町へ」は、実施が決まったと聞いていた。ぜひ実現して欲しいと思う。

 

お会いしたときに聞いた作品「JOKER 疫病神」の話も忘れられない。それは映画館での打ち合いの末に「おもしろかったぜ」とつぶやいて主人公が絶命するという脚本だった。自分も死ぬときにはそうつぶやいてみたい、とおっしゃっていた・・・。

 

荻大ノートに「墓標銘」のページはいずれ必要になると思っていた。だがこんな形でスタートすることになるとは想像もしていなかった。無念だ。

 

どうかみなさん純さんとの思い出を「コメント欄」にたくさん綴ってください。よろしくお願いいたします。

(大輔)

 

 

 

さよならだけが人生だ。

だが僕らには語り続けたい人がいる。

先輩がいる。仲間がいる。友がいる。

 

人は皆、生きて死ぬ。

だが死んですべてが消えてなくなるわけじゃない。

その人の生き様を、人物を、残してくれたものを、

私たちは語り続けよう。

 

ここはそんなページにしたいと思う。