宮崎デジタル化計画

宮崎デジタル化計画は、2012年2月になって急に加速度的な進展を見せている。

ネットの宇宙を漂流し続ける「宮崎号」は彗星のような楕円軌道を描いているものと見られ、我々から遠ざかって一切の通信が途絶えていたと思ったら、急速に接近してきて様々な通信を各地に試みるなど活発な行動が報告されている。

こうした中、先日驚くほど詳細なフリージャズ・アーチストに関するリポートが届いた。デジタル化の「師匠」として知られるおらがさん宛に届いたものだ。以下にほぼそのまま全文を掲載して報告する。このままうまく行けば、近い将来「宮崎号」からの定期的なリポートが届くようになることも夢ではない。

ぜひ皆様から応援のコメントを寄せていただきたい。(大輔)

 

(以下は宮崎からのリポート)

去年は大切な影響を受けた人が逝ってしまった年でした。私にとって彼もそのなかの一人でした。 ウィレム・ブロイカー、オランダの前衛サックス奏者です。

何度か日本にも来日して演奏中に歯ブラシと歯ミガキ粉をポケットから取り出して歯みがきを始めたり、 サックス ソロの途中でうがいをしたり、そんなに広くないライブハウスの中を皆で行進したりと、超絶技巧をアナーキーとユーモアでコーティングした様な素敵で楽しい彼等のコンサートを忘れられません。演奏が終わればただの酔っぱらいのオヤジにしか見えないけど、素敵な肩の力が抜けた不良中年。

コレクティーフの音楽を想う時、いつも高校生の私を夢中にさせた藤川義明のナウミュージック アンサンブルとドイツの左翼過激派ブラスバンドの類似と相違が頭をよぎる。同時期にオランダと日本とドイツで過激な演奏活動をしていた3つのバンド。日本とドイツは短命だったがブロイカーはコレクティーフを率いて死ぬまで(去年)活動していた。

ドイツではデモの先頭に立ち、ブロイカーはヨーロッパの現代音楽祭で顰蹙をかい、日本ではライブハウスの隣の料理屋のオヤジが「演奏をやめろ!」と包丁を握りしめて殴りこんで来たり、演奏を止めようとするオマワリともみ合いながら演奏していた。ナウ ミュージック アンサンブルはアングラ演劇の影響もあったと思うが、落語のアナーキーでナンセンスなところに、いや落語を音楽で演じていたのかもしれない。

それにしてもジジイになったブロイカーの音楽が聞きたかった、勝手な妄想だが殿山泰司がサックスを吹いている映像が浮かんでしまう。若い時は過激に無茶をし、年を重ねて肩の力が抜け、でも柔らかい頭と矜持は失わずに枯れて行き素敵なジジイになる(愛人は必要条件じゃないけどワガママはありかも) もし殿山さんがサックスを吹いたらどんな音が零れてくるんだろう?

コレクティーフは音楽だけのCDよりyoutubeの方が映像があって楽しいかもしれません、それにしてもyoutubeは凄い。一年前はこんなマイナーな音楽の映像が簡単に見られるなんて想像もつかなかった。

WILLEM BREUKER KOLLEKTIEF

ウィレム・ブロイカー(1944-2011)オランダ アムステルダム生まれ 65年頃から前衛サックス奏者として注目をされる様になる 67年ICP(インスタント コンポーザーズ プール)を結成、60年代末頃からきつい冗談のパフォーマンス色が強くなる。74年にマーティングバンド、キャバレー音楽、ブレヒト、フリージャズ、などの要素を入れたシアターミュージック 「コレクティーフ」を結成。

タイトル A PARIS / SUMMER MUSIC (1978年2月4日 パリ録音)

曲名

1. PARABASIS (6'44)

2. ANABELLE (3'49)

3. CONDIZIONE NIENTE (8'14)

4. LET'S FALL IN LOVE (2'48)

5. WAKE UP (4'35)

6. SUMMER MUSIC (15'53)

演奏者

Boy Raaymakers (tp) Jon Wolff(French horn) Willem van Manen(tb)Bernard Hunnekink(tb)
Willem Breuker(ts as aa) Bob Driessen(as ci) Maarten van Norden(tass)
Leo Cuypers(pf) Arjen Gorter(bass) Rob Verdurmen(ds)

 

荻大ノートののりさんのコメントを見て、阿部薫について考えCDも聞き返したけど、彼を語るのは本当に難しい。阿部はいつも「俺のサックスを何十回聞いたってお前には俺の事は理解出来ない」みたいなオーラを発する人だった。

それでも彼のサックスに魅せられて「ぴあ」で彼の名前を探しては知らない町の小さな喫茶店などに聞きに行った。阿部にレギュラーのライブハウスは無くて1.2回出演しては姿を消し、しばらくすると別の店に突然出演し短期間でまた姿を消すといった具合で彼の演奏を聞くのは大変だった。例外は死ぬ前の一年間(1978年)初台の「騒」に月2回位レギュラー出演していたと思う。

今思うと前述のオーラは私の思い込みの様な気がしている、二十歳前の小僧には演奏以外の部分にも過剰に反応していたんじゃないか。阿部薫については自分の中でもっと整理する必要があるなぁ。

こんな戯言 のりさんには悪いけど荻大ノートに載せる価値無いなぁ・・・

 

2011年から2012年へ。

年が変わっても「宮崎号」からの通信は一切地上に届いては来なかった。

「デジタル化計画」はこのまま挫折するのか・・・関係者に疲労と焦燥感が押し寄せていた。

そんなある日、ネットの宇宙をさまよっていた「宮崎号」から突然メールが届いた。

感動的な出来事だった。

2012年最初の「宮崎デジタル化計画」は、宮崎号から届いたメールの全文を公開する。

 

件名:悔い改めます


大輔 様

先日、師匠から「これ以上さぼるなら破門にする」というメールが届きました。

悔い改めて昨日から久しぶりにキーボードをいじり始めました

昨日は師匠に許しを請うメールを送りましたが、久しぶりなので時間がかかってしまい送信したのが早朝になってしまいました。

半年以上さぼったツケは身に沁みます。

年末に師匠がわざわざネジを巻きに拙宅まで足を運んで下さったのに、その時貰ったアメに目が眩んでしまったのです。

世界中のラジオが聞けるなんて凄い、ブラジルだけでも約350局位あるんです。

正月から一日中ブラジルの放送局をチェック(放送する音楽の傾向や時間帯など)する日々が始まったんです。

ブラジルではカルナヴァルに向けて大盛り上がり、この時期カルナヴァルに出るサンバチームの今年のエンヘード(テーマ曲)が頻繁にかかります。

週末には各チームの練習場で朝までサンバパーティー、カルナヴァル当日会場で観客全員が大合唱してくれないと優勝は難しいので各チーム力が入ります。

街では今年はどこのエンヘードが良いとか悪いとか、エンヘードは良いけどテーマがね、とか。みんな贔屓のチームを持っているし、チームに所属している人も多い(リオの街だけで一部リーグは16~18チーム、1チーム約4000人位)のでラジオからエンヘードが聞こえて来れば口ずさむ人、踊りだす人、けなす人、もう大変です。

多くのサンバ歌手は12月にアルバムを出し、カルナヴァルまでの期間にコンサートをします。ラジオから贔屓の歌手の新曲に乗せてコンサートの告知が流れて来れば東京に居るのにリオの地図を引っ張り出して会場を探し、8時開演と言ってたけど始まるのは10時過ぎだな、などと心はリオに飛んでいました。

師匠のお怒りのメールで気ずけばもう2月、大輔は日本に来ているし、沼辺さんはロンドンから戻ってる、一ヵ月以上師匠の言いつけを無視してた ・・・・マズイ!!

こんな付焼刃な近況報告でも荻大ノートのデジタル化計画に載せる価値はあるかしらん?(メールの練習だしね)判断は大輔にお任せします、これからお送りする(はず)のメールについても大輔の判断にお任せします。

御迷惑とは思いますがこれからも宜しくお願いいたします。

宮崎より

 

4月24日に宮崎宅に行ってから特に大きなトラブルは発生していない。
ただし、その間に何もなかったかというとそうではない。

N氏や、わが畏友HIRO君が私に代わって宮崎の面倒をみてくれていた。
その甲斐もあって、万事つつがなく進行しているのかと思われた。

しかし、「便りのないのはいい便り」という話は、こと宮崎に関しては当てはまらなかった。
便りがないのはそのまま「メールが打てない」ことを意味していたのだ。

宮崎にパソコンを勧めたのは、もちろんネットの世界に触れて信じられないくらいに多彩な世界を知ってもらうこともあった。しかし、それと並び、それ以上に宮崎に今までの経験・体験を発信してもらうことも重要な目的となっていた。

何気ない会話の端々に自ら体験したものでなければ語れない様々な話題が織り込まれ、そのどれもが我々を笑わせ、驚かせるものであったことから、これを発信しないことはそれこそもったいないことに思われた。

しかるに! ちょっと目を離すと宮崎はyoutubeを見まくり、ネットオークション遊びにでかけ、メール1つ打てなくなっていたのだ。これではとても「発信」どころではない。

そこで本年を終えるに当たり、HIRO君と宮崎宅を訪ね、ねじを巻きなおすこととした。

20111230_1.jpg[デジタル化計画の重要な担い手HIRO君]

ただ、締め上げるだけでは人間面白くない。
そこで、HIRO君の手を煩わせ、世界のラジオを聞くことができるソフトをインストールしてもらった。

20111230_2.jpg
[ソフトインストール中]

まてよ、そんなもの入れたら、中南米からアジア、アフリカまで音楽を聞きまくっている宮崎がますます「発信」しなくなるのではあるまいか、と思われたが、そこは別途手立てを考えることとして、とりあえず終了。無事ブラジルの放送やセネガル(ジンバブエだったか?)の放送を聞くことができた。

そこで、宮崎には課題を出した。「大輔編集長に毎週メールを送ること」だ。

まず文章を打つことに慣れてもらわないことには「発信」どころではない。そこで、荻大ノートの編集長で本デジタル化計画にも深い関心を抱いてくれている大輔君に毎週メールを差し上げて、近況・雑感を報告することにより「便りのある」状態を確保してもらうこととした。
(大輔君、ご負担でしょうが、どうぞ相手をしてやってください)

その後、荻大ノートに宮崎のコーナーをつくることも申し渡してあるので、いずれはそこで我々をうならせるような記事を連発してくれることを信じてやまない。

私をさんざん苦しめた最初のパソコンもHIRO君に手によって、立派に再生した。
これでバックアップ機器まで揃ってしまった。HIRO君は何しろ8ビットの時代からパソコンに付き合っている手練れ者なので、こんなことは雑作もないことのようである。人選を誤ったとしかいいようがない。
20111230_3.jpg
[復活した旧機]

2012年は、「宮崎デジタル化計画 第2期 画像と音声をアップする デジカメの撮影から」がスタートする予定である。 

夕方から放射能を含んだ雨が降り始めていた。
新橋のガード下で連絡員と接触を果たした。
6月初旬のことだった。

互いに傘をさしたまま居酒屋のメニューを読み上げる。
「天ぷら盛り合わせ」
「お肌つるつる」
無事に合い言葉が伝わった。

背の高い黒めがねの男は小さな固いモノを手渡して去って行った。
ガード下を歩く人々は誰も気にかけていない。
僕の手元に赤いメモリースティックが残された。
極秘(Your Eyes Only)の赤い報告書だ。

この中に極秘の計画「宮崎デジタル化」の全貌が詰まっている。
僕の肩がふるえたのは降り始めた雨のせいだけでは無かった。
じっとしていると危険が迫ってくる気がして地下鉄に急いだ。

隅田川がすっかり増水し水面は真っ黒に見えた。
「黒い雨」という映画のタイトルが脳裏をかすめる。
その黒い水面に自分の死体が浮いているというイメージを振り払うのに苦労した。

スカイツリーを横目に眺めながらアジトに戻った。
さっそくファイルに目を通す。写真入り。非常に詳しい報告書だ。
これがマスコミの手に渡ったら今の政府は吹っ飛ぶだろうか?
やつらはもう気づいているだろうか?

僕は一睡もしないで夜明けを待った。
7時過ぎ。表通りを走る車が増え始めた頃アジトを出た。
人目につかない地下のコインランドリーから直接通りに出てタクシーを拾った。
赤い報告書はリュックの中、一番大事なパスポートと一緒にしてあった。

2日後。報告書は無事にウィーンに輸送された。
IAEA国際原子力機関の本部があるウィーンでは「フクシマ」の事故をめぐる閣僚級会合が予定されていた。日本政府の公式の報告書がここで各国代表に配布されることになっていた。

世界中のマスコミがウィーンに集まっていた。
日本からは全テレビ局がロンドンやパリの支局から記者やカメラマンを派遣していた。
いくつかの社から接触があった。「報告書」について何か知らないか?という問い合わせだ。やつらはもう気づいているに違いない。「赤い報告書」が僕の手にあることを。

記者の一人とドナウ川を臨む水上カフェで会うことになった。
ビールとスペアリブが人気の店だ。
日本政府の報告書は一定の理解を持って受け入れられた、ということだった。
欧州は原発を安全に管理しながら当面存続させる方針だという。

僕はポケットの中の赤いメモリースティックを握りしめた。
夜8時過ぎ。ドナウ川は夕日にオレンジ色に染まり始めていた。
そこに浮かんだら水が冷たいだろうな、と思った。
僕はメモリースティックを渡さずに旧市街のアジトに持ち帰った。

それからしばらくほとぼりが冷めるのを待った。
IAEAの会合が終わり、各国メディアは潮が引くようにウィーンから姿を消した。
日本では首相が脱原発路線に転じたため、執行部があわてて引きずりおろそうとしていた。
裏では電気労連なども激しく動いているらしい。

僕は「赤い報告書」を友人に託すことにした。
僕の身に何かあったら報告書は荻大ノートに公開される手はずになっている。
もし公開されたらその時は・・・僕のために祈って欲しい。

おや、こんな時間に誰だろう、宅配便だろうか・・・。





(1) 2010年秋
 宮崎デジタル化計画は、何年も前から構想されていた。その計画をいよいよ具体化することとし、まず宮崎のパソコンをチェックした。
 予想していたとはいえ、CPUはセレロン、メモリーは256M、ハードディスクは60Gとそのスペックはかなり非力なものであった。そこで、手っ取り早い手段としてメモリーを増設し、768Mとした。また、セキュリティソフトをインストールし、とりあえずの準備を整えた。
 
(2) 2010年12月31日
 宮崎に拙宅まで来てもらい、インターネットとメールをまず覚えてもらうこととした。その様子は別稿「蕎麦ツアーその2」に譲る。

(3) 2011年1月15日
 この日は荻大新年会が催されたが、その前に宮崎から、何度やってもgmailにログインできないとの連絡が入っていたので、パソコンを持参してもらい、その原因を探ることとした。その結果原因が判明した。「.」を「,」と打ち間違えていたのだ。同じアドレスでこちらではログインできたので、何度も「ピリオドだよ、カンマじゃないよ」と言っていたのだが......。

(4) 2月26日
 その後、youtubeの動画がちゃんと見られないということ以外トラブルの報告はなかったが、youtubeが見られないのでは楽しさ半減なので、対策を講じることとした。
 今回、インターネットは、E移動体通信を使用しているが、速度がどうも0.4Mbpsぐらいしか出ていないらしい。そこで、通信環境は整っていないが速度は速いW移動体通信を試してみることとした。やってみると、何とか6Mbpsほどでアクセスでき、動画も見ることができるようになった。

[デジタル化_1 "デジタル化の聖地"]
デジタル化_1.JPGのサムネール画像

[デジタル化_2 "パソコンに向かう宮崎"]
デジタル化_2.JPGのサムネール画像

[デジタル化_3 "速度が出た"]
デジタル化_3.JPGのサムネール画像

[デジタル化_4 "youtubeが見られた!"]
デジタル化_4.JPGのサムネール画像

(5) 3月6日
 荻大サイトでメールアドレスを出せるとshun君から教えてもらったので、宮崎名義のアドレスを発行してもらった。それまでは、gmailでメールのやりとりをしていたが、教えるこちらにWebメールの知識がなく、宮崎が操作を失敗して5時間かけて作成した文章を消してしまっても、その原因が判らないという有様なので、プロバイダ経由のメールに切り替えてもらうこととした。shun君に何度か電話で問い合わせながらサーバ、ポートの設定を行い、メールの送受信ができるようになった。
 ここまでで、第1期は終了するはずだった......。

(6) 3月16日午前7時30分
 宮崎から、パソコンの画面が全く動かなくなったとの電話をもらう。出がけだったので、電源ボタンを長押しして電源を切るように指示する。

(7) 3月21日
 再セットアップを要求するメッセージが出たので、一度再セットアップすることとした。まだほとんど使っておらず、データもあまりないので、全部消えることになってもそれ程の影響もないことから、確実な方法として再セットアップを選択した。
 そうはいっても、通信の設定、セキュリティソフトのインストール、メールの設定や諸氏のアドレスの登録等、それなりの時間を要する作業になった。

[デジタル化_5 "再セットアップを要求するメッセージ"]
デジタル化_5.JPGのサムネール画像

(8) 3月27日
 ところが、またパソコンに何やら文字が出てきて動かなくなったとのことなので、再度セットアップを行った。......それなりの時間がかかった。

(9) 4月1日午後7時30分
 宮崎から、またパソコンが動かなくなったとの電話が入る。深い脱力......。

(10) 4月3日
 さすがにこの事態には再セットアップで対応できないことが判ったので、パソコンを換えることとした。新品なら問題は起こらないだろうと思い、型落ちのノートパソコンを購入して宮崎宅に運び、初期設定から、「それなりの作業」に進み、なんとか使えるようにした。
 今度こそこれで最後の作業になる...はずだった。

[デジタル化_6"パソコンが新しくなった"]
デジタル化_6.JPGのサムネール画像

(11) 4月16日
 宮崎から、何度かイレギュラーなメッセージが画面に出て、動作が不安定になるとの連絡があったので(この間のことは、本人からの別掲書き込みに譲る)、ここでも再セットアップを行うこととした。また、それなりの時間がかかった。

[デジタル化_7"再セットアップ ここまで進んだ"]
デジタル化_7.JPGのサムネール画像

(12) 4月20日
 朝、宮崎から、画面にハードディスクが壊れたので交換するようにとのメッセージが出たとの電話をもらう。いよいよ修理に出さなければならないので、昼に仕事場の近くまで来てもらい、保証書等を手渡す。
 
(13) 4月21日
 修理に10日程度かかるとのことなので、以前一度使用していた私のネットブックコンピュータをその間使ってもらうことにしたので、再び昼に会って手渡す。

(14) 4月24日
 前日、修理を完了したパソコンが戻ってきたとの電話があったので(じゃあ、10日というのは何なんだ!)、皆さまご存知の「作業」を行う。
 パソコンはその後順調に動いているようで、この日を最後に宮崎宅には行っていない。

ブラックアウトは航空・宇宙関係者なら誰でも知っている言葉だが、同時にあってはならない危険な状態を意味する言葉として、もっとも忌み嫌われている。

それは操縦士の下半身にGがかかり脳への血流が遮断されることによって起きる視野喪失を意味する。大変危険な状態で、すぐに回復しなければパイロットは失神し航空機や宇宙船は制御不能となる。

この「ブラックアウト」の報告が、デジタル宇宙を飛行中の惑星探査船「宮崎号」から入ってきたのは4月下旬のことだった。非常に微弱な電波で入ってきた「宮崎号」からの通信文を紹介しよう。

(引用開始)

大輔 様

漂流中の宮崎です、近況報告いたします。

以前 報告しましたが父のPCは不調で おらが氏のチェックの結果 修理不能、廃棄となりました。おらが氏が自分のPCを持って来てくれて、そのPCで前回メールを書きました。

驚いた事に 4月3日(日) おらが氏が新しいPCを購入して持って来てくれました。
しかし 2,3日するとネット検索すると違うサイトに行ったりし、続けると 全てのネットに繋がらなくなりブラックアウトしてしまいました。電源を入れ直しても 起動出来ません と表示されます。

おらが氏に電話したり、サポートセンターに電話し、使い方の部と故障の部をたらい回しにされたあげく指示された事やってはダメでまた電話する を繰り返し 最後は 初期化せよ との事。自分では出来ないのでおらが氏に来てもらい 初期化 してもらいました。

しかし また同じ事が起こり また電話の繰り返し おらが氏は毎週末 拙宅に来て初
期化をするはめになってしまいました。
先日も 「沼辺さんの講演 始まった頃かな?」など話しながら作業をしてくれました。

4月19日(火) 今度は HDDが壊れているので交換するように と表示されました。
サポートセンターに電話すると 今までは アレはやったか コレをやれ としつこ
かったのに「すぐに修理に出してください、壊れてたんですね」とあっさり言われました。

この3週間は何だったんだ!

PCを修理に出し 昨日またおらが氏からPCを借りて このメールを書いています。

詳細は、おらが氏から報告が届くとおもいます。

宮崎 朗

(引用終わり)

 

・・・というわけで宮崎デジタル化計画は発進以来最大の危機を迎えている。

 

現在起きているブラックアウトは、幸いにして飛行士の身体に生じた現象ではなさそうだ。しかしデジタル宇宙の中で情報を収集し発信するという機能が失われれば、それは単なるPC画面のブラックアウトにとどまらず、宇宙船宮崎号が我々の視界からブラックアウトすることにもつながる。

 

ここしばらく通信が途絶えていたので、地上では宮崎号がブラックホールに吸い込まれたか、どこかの(魅力的な)惑星に不時着してしまったのではないかとやきもきしていた。そこへ飛び込んできた宮崎号からの通信文は、まるで小さなガラス瓶につめられたメッセージだ。

 

これを正しく解読し救援の手を差し伸べる作戦は、すべておらが技術部長の判断にかかっている。一刻も早く危険なブラックアウトを繰り返す状態から該船を救ってもらえるようにお願いしたい。

 

そろそろ状況報告の写真がアップされるという話もあるのだが・・・もう少し待つことにしよう。

 

今月も宮崎デジタル化計画について報告する。

 

今年の元旦、荻大ノートの発進と共に宇宙探査船「宮崎号」は白山の荒川宇宙センターからデジタルの大宇宙へ打ち上げられた。打ち上げ技術とその後のモニタリングはおらが技術部長が責任者として担当。搭乗員との交信はぬまべ研究員と僕が担当している(ような感じだ)。

 

足掛け5年の計画だったが、いざ打ち上げてみたら「宮崎号」は非常に優秀な性能を発揮し、見事に順調な飛行を続けている。これは「宮崎号」にとっても地上で見守る我々にとってもまさに「未知への航海」。情報の大宇宙への旅である。

 

旅の成果を知る貴重なデータのひとつが「宮崎号」から寄せられる報告の数々だ。このシリーズの第一回で既にその一部を紹介したが、PCの不調に苦労しながらもそれを克服していく様子が伝わって来た。第2回はその後の航海の様子と不思議な現象について伝える。

 

まず3月のことだが「宮崎号」も多くの友人たちと同様に東日本大震災の大きな波動を受けた。CDが頭に降り注いだというそのときの状況は「震災と津波と原発」のカテゴリーの(8)に掲載してあるので読んで欲しい。

 

この震災の後「宮崎号」は再びPCの不調に見舞われたという。そのため地上の僕からのリポート要請に対して応答が無い状態が続いた。その後おらが技術部長の献身的な努力が功を奏して再び連絡回線が開くと「宮崎号」からの詳しいリポートがぬまべ研究員の元に寄せられた。それが前述した「震災と津波と原発」の(8)のリポートである。さらに「宮崎号」は(9)と(10)のリポートも送ってくれた。一連の報告を通じて「宮崎号」の素晴らしい情報収集とその発信能力が証明されたことになる。

 

しかしこの間不思議な現象も起きた。それは(9)と(10)のリポートだ。リポートはなぜかおらが技術部長からの発信になっていた。これがPCの不調に関係しているのかどうか、今のところ僕には確かなことがわからない。

 

ただ現時点でわかっているのは「宮崎号」が様々な困難と闘いながらも果敢に「未知への航海」を続けていることだ。その証左となるのが前述の(10)のリポートだ。ここではデジタル宇宙を飛行中に発見した小惑星「藤波心」についての詳細な報告をしている。また、mixiというネットワークを通じて情報収集のアンテナを増殖させている様子も地上の様々な関係者によってモニタリングされている。

 

つまりすでに「宮崎号」は、自らアンテナを伸ばし独自の視点で発見した新しい情報を我々に発信してくれるようになったのだ。かつて惑星探査船ボイジャーが未知の惑星の写真を送ってくれたように、そして宇宙望遠鏡ハッブルが数千の銀河の存在を我々に教えてくれたように。

 

今後の航海ではユリシーズがセイレーンに出会ったような危険も体験するかもしれない。それでも「宮崎号」が多くの困難を克服して航海を続けることを願ってやまない。その写真入りの航海日誌がおらが技術部長のもとで編纂されているといううれしい情報もある。

 

シリーズ第3回でその「おらが日誌」が公開されることを願って今月の僕の報告を終えることにする。

みなさま、「宮崎号」に励ましのコメントをよろしくお願いいたします。

(大輔)

 

 

 

今月から毎月一回「宮崎デジタル化計画」の進捗状況を報告して行きたい。
なおこの連載は誰でも書き手になれるので、そのつもりで参加してもらいたい。

「宮崎デジタル化計画」とは宮崎県全域に光ファイバーを張り巡らすこと・・・ではない。
我々荻大メンバーの中で最もデジタル化が進んでいない宮崎君を、皆で協力し合ってデジタル化しようという計画だ。メールやインターネットをできるようにするために、彼の環境と体質の改善を図ろうという5年越しの大計画である。

宮崎は(いつもこう呼んでいたので以下敬称略)仲間の中でも一番「おたく度」が高いと思う。荻大メンバーには映画好きで博学の人が多いが、宮崎の場合はフリージャズを筆頭に「普通の人が知らない世界」にものめりこんでいたと記憶している。そして彼はいつも「普通の人が知らない世界」について面白く語った。あまり面白く語るので僕らは飲みながら彼の話を何時間でも聞いた。かなり脚色して話していたのだろうが、それもひとつの才能だ。デジタル化によってその才能が再びスポットライトを浴びる日が来ることだろう。

宮崎デジタル化計画の経過や最大の功労者おらがさんについては、おらが写真館の蕎麦会のコーナーで見ることができる。いずれ彼の苦労話も詳しく聞くことができるだろう。
ここでは往復書簡形式で、宮崎から近況を報告してもらおうと思う。
誰でも宮崎にメールを出して返信をもらったら、本人の許可をもらってここにアップできる。そんな感じの共有できる連載コーナーにしていきたい。

第1回は僕(大輔)との往復書簡。
それはこんなふうに始まった。

宮崎様
 
久しぶり。元気ですか?
 
その後コンピュータの調子はどう?
youtube見てますか?
 
例えばきょうはどんなものを見たのかな?
今年から見始めて印象的だったものは?
よかったら感想も教えてください。
 
荻大ノートは3月1日の更新を目指していますが、宮崎の近況も伝えられると良いな、と思っています。
このメールに返信をくれればそれをそのまま載せることもできますが、どうでしょうか?
 
とりあえず返信を待ってます。

大輔

すると、なんとその日のうちに返信が届いた!
しかも長文、感動しました。

山本 様
 
メール ありがとう 昨日から1ケ月ぶりにメールを再開(大輔へのメールを含めて5回しかやってなかったけど)したので 大輔にメールしようかなと思っていたところでした。

近況を報告します 荻大ノートに載せてください 名前はハンドルネームに直してくれたらありがたいです。
 
去年の大晦日に ねばり強くパソコンを始める事を薦めてくれていた おらが氏宅におじゃまして 3時間位親切に基本を教えてもらいました。 
それまでも 色々な口実を言って(仕事でも俺は手書きでとうしてる とか 父親の介護で手が回らない など)いまさら新しい事を覚えるのは めんどくさい と逃げていたのですが、さすが おらが氏 蕎麦会の前に勉強させるなんて アメと鞭の使い方がうまい。長いつき合いだから 落ちこぼれのオレの転がし方なんて簡単なのかな?
 
蕎麦会の途中で荒川の事務所で初メール このときの様子は おらが写真館に載っています。
 
しかし残念な事に 翌日 目が覚めると 飲みすぎたせいかパソコンの使い方は ほとんど忘れていたのでした。
 
それでも メモを見たりしてネットを検索したり沼辺さんのブログの日記を拝見(沼辺さんの日記は凄い、凄すぎる。あんな濃密な文章を毎日書くなんて)して楽しんだり、大晦日に打ったメールの返信に返信(ずいぶん時間がかかりましたが)したり、毎日 パソコンの前にいました。
 
しかし 一番楽しみにしていたyoutubeがダメなのです すぐに画像が止まってしまい 3分位の曲が何回も止まって15分位かかってしまい イライラのしどうしです。イライラするので見るのを止めてしまいました。
 
それでもネット検索は楽しく 色々いじくっているうちに 今度はメールが打てなくなったのです。
電話で 師匠のおらが氏に色々と教えてもらったのですがダメでした。
 
仕方がないので 1月15日の新年会にパソコンを持参しました。
 
原因は 私にとって衝撃でした なんと私は 自分のメールアドレスを間違えていたのです。
 
おらが氏には 「ああ、そうだったの」 と軽く受け流しましたが 実はひどく落ち込みました。
この10日間のパソコンとの格闘はなんだったのか。
 
みんなの楽しそうな会話もうわのそら 目の前の鰤も食欲をそそらない。
55歳のオヤジの心は傷つきやすい
でもそこは年の功 楽しい会の雰囲気を壊さぬ演技は完璧だったと思う。
 
哀しい
 
自分の愚かさに嫌気がさして しばらくはメールをやりませんでした。
 
2月になって気をとりなして またメールを始める事にしました。
返信をしていなかったメールに短い返信をして 2月6日に昼から夜までかかって初めて長文をうちました。
 
内容は 浅川マキの命日にyoutubeで彼女の唄を聴こうとしたら静止画なのに何回もとまってイライラした事や、その時はまっていたヤフオクで植草甚一が古本屋でかってに自分が適正と思う価格に値段を書き変えていたという話を思い出して 自分でCDの適正価格を設定して実際の落札価格と比べ、勝敗表をつくって遊んでいる事など。
 
まずは 師匠のおらが氏に送って見てもらい その後見直ししてから 荻大ノートに送ってもいいかなと思い、送信しました。
 
その時 メールが消えたのです
 
いろんな所をいじくったのですが あの文章は出てきません。
 
気が狂いそうでした。 またメール放棄の日々がまたはじまりました。
 
そんな私を心配して一昨日(2月26日)に 師匠のおらが氏が拙宅まで来てくれたのです。
私の使用しているパソコンは 去年死んだ 家電好きの父が8年位前に購入し 手に負えず埃をかぶっていたものです。
そんな古いパソコンをおらが氏はヴァージョンアップしてくたのですが限界があり youtubeを楽しめなかったのです。
おらが氏は今までと違う方法で改善し、文章が消えない方法を教えてくれました。
 
昨日は youtubeを楽しみました、しかしこのメールを文章が消えない方法で試みたのですが うまくいきませんでした。
メモをとらずにいた自分にウンザリです。
 
このメールが無事に届く事を祈って送信します。


いかがでしょうか?
ちなみにこの文章を打つのに10時間かけたそうです。
皆様、応援のコメントをよろしく!
また、このコーナーぜひ皆さんも参加して、宮崎にメールを送ってください。
よろしくお願いします!

(大輔)