高田純さんを偲ぶ会

皆様

三浦さんから以下のメールが寄せられましたのでご紹介します。

 

三浦規成@荻大です。

MIXIを見ていたら、知り合いのルポライター生江有二さんが次のような日記
を書いていました。荻大ノートへの転載を許可されたのでコピーして送ります。

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「牡丹亭と庵」というマイミクがいる。その姿がふっと消えてしまった。 

と庵=本名高田純は、脚本家として30年以上、オイラとの付き合いは35年近い仲になる。その実家にお邪魔し、6月25日に予定している「高田純を偲ぶ会」で流すVTR作りのための作品を借りてきた。

多数のテレビ用脚本があった。書きかけの脚本が3本あった。それ以外にもいくつか高田を指名して脚本依頼が来ていたという。

還暦を過ぎるとめっきり仕事の依頼が無くなる、というのが物書きの世界。オイラはまともに今、その風を受けて荒野に立っている感がある。が、高田は以前にも増して多忙になり、それが死を早めた一つの要因かも知れない。

小田原で映画関係者と密な打ち合わせ後、自宅のある大雄山線・岩原駅目指して電車に乗り込んだ。しばらくすると異様な胸苦しさを覚えたようで、
「体調がおかしいので、駅まで迎えに来てくれ」とカミさんに電話があった。
カミさんはすぐ、駅へ迎えに行ったが、肝腎の電車がなかなかやってこない。
すると前々駅で病人が出たとアナウンスがあった。あっと思ううちに線路と並行 して走る道路を救急車が飛んでいったという。

救急隊員、そして担ぎ込まれた救急病院の医師たちは、およそ2時間、心臓マッサージを施すなど、けんめいの救命措置がとられた。しかし、高田のいのちは蘇生しなかった。

これまでの10余年、高田は変調をきたす心臓の病と闘ってきた。バイパス手術なども3度おこなわれ、もう手術はいやだと口癖のように言っていた。酒も飲まず、たばこも最近はやめて、双子の孫をかわいがりながら脚本を書き続けていた。

それでも病魔は静かに高田をむしばんでいたのだろう。つねに持っていたニトロ錠も飲んだが、効かなかったようだ。4月21日のことだった。

4月23日、通夜。スポーツニッポン等にその死が載った。が、遺族は3月30日にも父親を亡くしており、翌日の告別式はわずかな近しい者だけが参列する密葬形式で執り行われた。

高田の書いた脚本は数多い。借りてきたものは女優美保純の名を高らしめた『ピンクのカーテン』にはじまり、神代辰巳監督と組んだ『恋文』『離婚しない女』。渡辺典子主演の『いつか誰かが殺される』渡部篤郎、萩原健一共演の『JOKER』等々、昨年放映された昼ドラの『熱血ニセ家族』も含めたものが10~15分に編集される。

しかし、20年近くに渡り映画化を進めた『六連発愚連隊』を始め、3冊の書きかけ脚本など、もう5年、生き長らえていれば作品になったであろうことは想像に難くない。マイミクての字さんは"戦死"と表現したが、戦死であると同時に、憤死であるとオイラは思っている。

ただ、つねに斜めに構え、皮相な対応をすると思っていた彼が、夫人のために壁用の土を郷里から運んで茶室を造り、孫の双子姉妹を熱烈にかわいがるなど、予想もしない生活を営んできたことを知って、少し驚いた。オイラたちには見えなかった側面が、家庭にはあったのだと思うと、穏やかに生きることを望んでいた、しかし、穏やかにはなれない職業であったのだと感じた。

人生は短い。ろうそくが燃え尽きる1本分もないのだと感じる友の死だった。

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生江さんは昔テレ朝の「トゥナイト」などにもよく出演したルポライターですが私とは新宿ゴールデン街「ふらて」で作ったラクビーチーム「ピンクエレファンツ」のチームメイトでした。

6月25日の偲ぶ会に出席したいとコメントしたところ

6月25日、午後4時~ 新宿「銀座アスター」
会費1万円(残ったら全額遺族へ)

というコメントが返ってきました。詳しい案内は私のもとに送られる予定ですので、出席希望の方は三浦までご連絡ください

とりあえず

 

(三浦規成)

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