東日本大震災と福島原発事故について(2)

アンケートを試みた

震災から1週間、荻大の仲間たちは無事だったのだろうか
?
ちょうどそこへのりさんからメッセージを頂いた。
「こういう時こそ長年環境問題に取り組んできた荒川に何か書いてほしい」という内容だった。
ずっとUstreamで震災報道をただ眺めていた自分だがのりさんに背中を押された気がした。荻大ノートで皆に連絡してみようと思いアンケートを試みた。質問は二つ。

1)いつどうやって遭遇したか?そのときどう思ったか?
2)福島原発事故についてどう思うか?

するとさっそく沼辺さんから返信があった。
千葉に住んでいる沼辺さんはその時早稲田にいた。
以下は沼辺さんからの返信に大輔が見出しを付けた。

沼辺さんは早稲田を移動中だった

当日は地下鉄で早稲田まで出向いて昼食を摂り、早大の演劇博物館の展示を観たあと、夕方から講演会のある四谷三丁目へ移動しようと、早稲田通りまで戻って信号待ちをしているところでした。

不意に足元から突き上げるような衝撃を覚え、目の前で信号機と電柱が激しく揺れています。周囲の建物という建物が悲鳴のような軋み音を上げ始めま した。咄嗟に「とうとう東京に大地震がきた」と直覚し、「ビルからの落下物を避けなければ」とじりじり後ずさり。背後にあった寺の境内に足を踏み入れる と、水盤が波だって溢れています。とりあえず安全そうな場所なので、その場に立ちすくむこと五分ほど。ひとまず揺れは収まりました。
 
そこで携帯から自宅に電話をかけると繋がらず。ふと周囲を見回すと、建物から飛び出した人々が路上でこぞって携帯を手にしている。これでは通じ るわけがないと諦め、とりあえず目的地の四谷まで歩くことに。もちろん頭上と足元に細心の注意を払いながらです。途中で何度か余震があり、外壁が剥がれた 家や崩れた塀も目にしましたが、甚大な損害はなさそうです。なのでこの時点では「大したことはなさそう」と多寡を括っていました。

ヘルメットに防災頭巾

一時間ほどかけ目的地である四谷三丁目の国際交流基金ビルに到着。案の定、講演会は中止とのこと。講師が到着できず、しかもホールの壁が崩落した、係員からそう聞かされてギョッとしました。「これは結構大きな地震らしいぞ」と。
 
とにかく千葉の自宅に帰りたいと思いました。こんな日に地下鉄は怖いので、JRの四谷駅を目指して歩き出すと、逆方向(つまり新宿方面)へと向か う人波が圧倒的に多い。それで「ははあ、JR総武・中央線は動いてないな」と察しました。ヘルメットを被ったサラリーマンやOL、防災頭巾姿の小学生たち ともすれ違い、ただならない雰囲気。「これはおおごとだ」と、いよいよ緊張感が走ります。

JR四谷駅はもちろん改札閉鎖。そこのTVで初めて大地震の報道に接しました。ただし、情報は錯綜し、津波の第一報もまだだったかと思います。公衆電話があったので行列して自宅にかけてみると、繋がりはしましたが家人は不在。とりあえず伝言で無事を伝えました。

段ボールの寝心地を知った
 
このまま四谷駅前に屯していても無意味なので、土手沿いに市ヶ谷、飯田橋と歩きました。「少しでも千葉に近づこう」と考えたからです。飯田橋駅のTVで都内のすべての電車が停まっていると聞かされ、この段階でいよいよ腹を括りました。

周囲はもう暗いし、寒くなってもきた。時計をみると七時。歩き疲れて喉も渇いたし腹も減った。今のうちに食べておこうと駅脇のショッピングビル 「RAMLA(ラムラ)」のタイ料理屋で夕食。一時間ほどして辞去すると、ビルの一階の床には手回しよくブルーシートが敷かれ、希望者には段ボールが配ら れました。「まあいいや、ここなら雨風が凌げる」と観念して、段ボールを貰い、その場にしゃがみこみました。傍らの公衆電話がようやく自宅に繋がり、互い の無事を確かめあうと「今夜は飯田橋で夜明かしする」とだけ告げて、自分の場所に戻ってごろりと横臥。段ボールの寝心地を初めて知りました。

福島原発事故に思う

地震列島に原発を作ればこうなるのは当然の帰結です。想定内のことがただ起こっただけ。以前からそうわかっていながら、声を上げることもせず、この国家的暴挙をみすみす許してきたわれとわが身がどうしても許せずにいます。

逃げられる人はどうか逃げてほしい。特に年若い人たちは。Go west!

もしも生き残れたら、今度は必ず声を上げることを誓います。



以上、沼辺さんからの返信をご紹介しました。
皆様のコメントをお待ちしています。
(大輔)

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