KIBOU 2012 (1) こいぶーさん

すでに2月も半ばを過ぎましたが、「KIBOU 2012(「青春の殺人者」上映会レポ付き)」です。

皆さんの「SAYONARA 2011」を読むと「○○さんが亡くなった」とかの"引き算"の話ばかりで「あーもうみんな○○だなぁ。私の仕事相手の小学2年生なんて毎日が新しいものとの出会いの連続で、『掛け算九九を覚えた!』『逆上がりができた!』『鍵盤ハーモニカが弾けるようになった!』『町たんけんで怪獣公園に行った!』『新しい漢字を5つ覚えた!』・・・なのになぁ」と、思ったのでした。

で、自分を顧みると・・・、うーーーー。
いったい、何歳くらいでプラスの人生からマイナスの人生に転じるのでしょうか?

さて、「KIBOU 2012」の前に、一応、2011年を振り返ると・・・・。

私にとって2011年は、「3・11」の記憶と共に、moonridersの「無期限活動休止」宣言の年として記憶される年になりそうです。「東京一古いバンド」「東京一は日本一」というキャッチフレーズの下、一部には高い評価を受けてきましたが、一般の方々にはほとんど受けなかったバンドでした。

moonridersはこれまでも実質的に活動休止状態のときがしばしばありましたし、最近でもメンバーそれぞれはソロでの活動がメインで、moonridersの仕事は年に一度という感じだったのでした。
それなので、今回の活動休止宣言も「何を今さら」という戸惑いをほとんどのファンは感じたはずです。
バンドの中心人物である鈴木慶一氏はかつて「誰か一人でも欠けたら解散する」と言っていたので、「誰かが亡くならない限り解散はしない」とばかり思っていたのでした。(まあ、今回は解散じゃないけど・・・)

実は、私は大学生のときにそのmoonridersのコピーバンドをしていたのでした。役割はボーカル。鈴木慶一役です。私はコピーバンドを作るくらいmoonridersが大好きだったので、活動休止直前のホール・コンサートである中野サンプラザでは演奏を聴きながら、いろいろなことが脳裏に浮かんできました。
その中には荻大のみなさんと一緒に聴いたハイドパーク・フェス(大雨でサンダルが流されて行方不明に・・・!)のこともありました。また、都内各所のホール・コンサート、小岩井農場でのライブ、フジロックでの客の少なかった(笑)ライブ、新宿ロフト、今は無き日清パワステ・・・・・・・・。

一応「活動休止」なんだけど、ファンの多くは「解散」と感じています。
サンプラザではmoonridaersの文字の入った赤い風船が天井から降るというこれまでに無い演出があったり、12月30日のタワレコ新宿店での屋上ライブ(当然、これはビートルズ最後のライブとなったルーフトップ・コンサートを意識したもの)をしたり、翌、31日の高円寺HIGHでのファンクラブ会員向けの無料ライブをしたり・・・と終焉感を出しまくりの2011年末だったのでした。
おまけに、「ミュージック・マガジン」の2012年2月号の表紙はmoonridersなんだけど、それに添えられている文字が「特集 さよならムーンライダーズ」・・・。
「さよなら」は使っちゃダメでしょ・・・。

活動休止の理由は一切明らかにされていないんだけど、ちょっと気になったのが2012年1月に新宿ロフトで行われた「さるはげロックフェス」に出演した鈴木慶一氏の歌。最後に「君はガンなのだ」(「The Lost SUZUKI Tapes」に収録)を歌ったんだけど、その最後の最後、歌詞を替えて「俺はガンなのだ」と歌ったのでした。
もしかして、これが活動休止の理由なのかな??????????????????


そんな2011年、出会いもありました。
それは荻大ののりさんも関わっている「5時からシネマ」で長谷川和彦監督(ゴジ)と原田美枝子さん♡にお会いできたこと。
新百合映画祭の脇道企画として始まった「5時からシネマ」ですが、その第1回上映作品が「青春の殺人者」。「『5時』だから『ゴジ』にしよう」というすばらしい発案で選ばれたのがゴジの第1回監督作品の「青春の殺人者」(キネ旬ベストテンで第1位)。
私はこの映画は大好きで、当時、キネ旬にシナリオが載ったのも読んだりしていたのでした。(DVDも持ってる!)

荻大のみなさんが裏で大活躍して成功させたのが「歌う銀幕スター 夢の狂宴」(1975年)で、その舞台演出を手掛けたのがゴジ監督。当時、田舎の高校生だった私は映画を大量に見られる環境に居なかったためその企画には近づかず、群馬でひっそりと暮らしていました。なので、私はみなさんと違って、当時、ゴジ監督と出会ってはいなかったのでした。
(そんな私が「夢の狂宴」のちらしを見たのが林美雄さんのこともしばしば記事にしていたミニコミ誌「ぱっくにゅうす」の表紙!でした。そのミニコミを発行していた田中孝司さんも一昨年にお亡くなりになりました。合掌)


2011年11月19日、川崎市アートセンターに到着。荻大の大輔さんと合流。のりさんとも挨拶。

久しぶりにスクリーンで見た「青春の殺人者」。やはり集中できる映画でした。
上映後、トークゲストとしてスクリーン前に登場したゴジ監督と原田美枝子さんのお話はとても興味深いものでした。印象に残ったのはゴジ監督の緻密さ。これまで私がゴジ監督に対して持っていた印象は、「つねに酔っ払っていて、何に対しても『ガハハ』と笑い飛ばして豪快に処理?してしまう」というものだったのですが、実はそうではありませんでした。

「青春の殺人者」を撮影するにあたっての事前の準備はかなりのものでした。映画の原作のモデルとなった親殺し事件のあった千葉県市原市には8カ月間も通ったとか、その裁判も傍聴したとか・・・。
でも、撮影そのものはやはり豪快でした。映画の中で店を燃やすシーンがあるのですが、これが無届け! 他にも、自動車の検問シーンで自動車の大渋滞シーンが写っているのですが、その渋滞はその検問シーンの撮影で実際に起こってしまった(起こしてしまった)渋滞だったのだとか!

その後、「5時からシネマ」スタッフ設営による「おでん交流会」が開かれ、ゴジ監督と原田美枝子さんとお話しすることができました(原田さんのサインももらった!!)。原田さんは私と同年齢なのですが、いい感じに歳を重ねている感じで、とっても上品な雰囲気を持っていました。

当日は「撮影禁止」ということで写真は撮れなかったのですが、スタッフがお二人の記念写真を撮っていました。そのときにカメラに写った原田美枝子さんは、「青春の殺人者」撮影当時の高校生に戻ったかのような明るくてすてきな笑顔でした。周りにいたみんながカメラのモニター画面を見て「とっても素敵」とか口々に言ってましたが、ゴジ監督と一緒だったからこその笑顔だったに違いありません。

会場に「青春の殺人者」のポスターの色違いの2枚がスタッフによって用意されていたのですが、それを前にして原田さんが教えてくれたのは、2枚のポスターで原田美枝子さんと水谷豊氏の名前の印刷順が逆になっていたこと。周りにいた一同「おう!」とどよめきました。
その2色刷りのポスターを前にして、「こんな安上がりのポスターは他に無いよ!」と豪快に笑ったのはゴジ監督。

ゴジ監督はその「おでん交流会」の後、話の尽きない映画業界志願者の若者とかたくさんの人を引き連れて近くの店になだれ込んだようです。その中には大輔さんもいました。大輔さんは酔っ払って何を話したか覚えてないようですが、「おでん交流会」で原田美枝子さんに名刺を渡してナレーション仕事の可能性を伺ったのは覚えてますよねぇ・・・?

 

ところで、2011年の年末。私は沖縄県庁に3日間詰めて、辺野古の環境影響調査書の提出阻止のための座り込みに参加していました。「沖縄県庁での行動」で、すぐに思い浮かぶのが教公二法阻止のための立法院の包囲行動。今回の座り込み者の中にもその関係者がいて、「当時はデモ隊の周りには高校生がいて、『先生がんばれ!』と言っていた」というようなことを話す人もいました。
今回の座り込みは当時の人数から見るとごく少ない人数でしたが、その奥には沖縄県民大多数の応援があったのは容易に感じられました。日米政府の悪行に対し身体を張って抵抗するという沖縄の運動はすばらしいです。が、沖縄県民にこのようなこと何十年も続けさせる日米政府に対しては怒りでいっぱいです。


そんな2011年が終わり、2012年。
私は異動の年で、4月に職場が変わる予定です。群馬県教委の方針で、教員は8年間同じ学校に勤務すると異動させられるのでした。やっぱり異動は一大行事。おまけに、私の場合は異動するたびに、児童用の机・椅子のサイズの大改革と、持久走大会の大改革をしてるので、それもけっこうたいへんなのでした。

そして、今年は労働組合の中の超多忙な役職に復帰します。今回はややのんびりやって睡眠時間を確保できるような組合活動を目指したいと思っています。

ということで、職場も組合仕事も変わるので、この1年間はかなりたいへんな年になるのは確実です。でも、やっぱりライブハウスにはどんどん通って、今年もすばらしい音楽にたくさん出会いたいと思います。

終わり

コメント(1)

大輔 Author Profile Page:

職場が変わってその後いかがですか?大改革は進んでる?子どもたちにとっては良いことですよね。また後日談を書いて下さい。

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