『ミドリブタ・ニュース』1974年8月上旬発行

舞い込んだ一通の手紙がその後の人生を変えてしまう。まるで小説か映画のワンシーンさながらだが、そうした決定的な瞬間が確かにある。
1974年8月8日、木曜日。埼玉県大宮の自宅に、なんの変哲もない茶封筒が届けられた。金釘流で殴り書きされた宛名。裏面にはなぜか差出人名が書かれていない。開封してみてびっくりした。「ミドリブタ・ニュース」とタイトルが大書されたB4の藁半紙一面に、簡易印刷された手書き文字が並んでいる。

林美雄さんがパックをやめるそうです。実をいうとパックインミュージック2部のほとんどが変わるらしいのです。どうやら歌謡曲の番組(某放送局の走れ──のような)となるようです。
そこで私たちは考えました。
何とかして林さんに放送を続けてもらうためには、どうすればいいのか? 一人で考えるより二人で、三人でと、一しょに考える仲間が出来、林さんに放送を続けてもらうための会を結成しました。
その会の名称は「パック 林美雄をやめさせるな!聴取者連合」です。

林パックが終了してしまうことはすでに知っていた。7月26日の番組で林さん自身の口から聞かされていたのである。偶然にこの深夜番組を知り、愛聴し始めてやっと一年になるかならないかという段階で、全く寝耳に水の知らせである。「そんなバカな...」とわが耳を疑い、無念と憤りがふつふつとこみ上げてきた。
「ミドリブタ」を自称する美声のアナウンサーが手品師のように繰り出す「魔法」の数々に魅せられ、ようやく未知の世界を垣間見た矢先の出来事だったのである。

林さんは自分の好みを隠そうとしなかった。映画といえばもっぱら日本映画、それもニューアクションからロマンポルノへと舵を切った日活への偏愛ぶりは熱を帯びて凄まじかった。監督なら藤田敏八、長谷部安春、神代辰巳、田中登。俳優なら原田芳雄、藤竜也、中川梨絵、桃井かおり。流される音楽もそれらの映画にまつわる挿入曲から、石川セリ、能登道子、中山ラビ、そしてデビューしたての荒井由実...と、ほかの番組ではまず聴けないラインナップだ。架空のニュースを大真面目に読み上げる「苦労多かるローカルニュース」のようなふざけた面も、小田実や小中陽太郎らをゲストに招いて「世直し」をアピールする硬派の面も、ともに併せもつ「唯一無二の」刺激的なラジオ番組だったのである。

「ミドリブタ・ニュース」の差出人は東京都下・青梅に住む中世君という人。まだ面識はなかったが、たまたま2か月ほど前、『あっ!下落合新報』というリスナーを対象にしたミニコミ紙を発行し始めたことを林パックで知り、定期購読を申し込んでいたところから、その新聞の「号外」として送られてきたものだと思う。
「何とかして林さんに放送を続けてもらうためには、どうすればいいのか? 一人で考えるより二人で、三人で...」。本当にそうだ、と深くうなずいたのを今でも憶えている。

実は中世君から届いた封筒には、「ミドリブタ・ニュース」のほかに、小さな紙片も同封されていた。その全文を引いておこう。

12日に、パ聴連(パック・林美雄をやめさせるな!聴取者連合)が集会を開きます。場所は、千駄ヶ谷区民会館です。国電・原宿駅の近くにあります。林さんをやめさせないための話し合いをしませんか。署名運動をします。あなたも署名してください。
パック・林美雄をやめさせるな!聴取者連合
8月12日 PM5:30〜9:30

紙片には会場までの道順を記した簡単な地図も添えられている。

手紙が届いたその日がたまたま木曜日だったのにも運命的なものを感じずにいられない。
何度も文章を読み返した。居ても立ってもいられない気持ちになって、興奮のあまり少しも眠れないまま、翌朝3時からの「林パック」を聴いたのだと思う。その日のパックがどんな内容だったかはもう思い出せないが、「来週は当番組が誇るマドンナ、石川セリと荒井由実、ふたりの歌姫がスタジオに来てくれます」と林さんは誇らかに予告したはずである。

5時に番組は終わり、すっかり明るくなった空を見上げながら、意を決したように立ち上がると、顔を洗ってそのまま家を出た。行き先は青梅にあるという中世君の家である。

大宮の自宅からバスと電車を6本も乗り継ぎ、3時間近くかかったと思う。朝9時頃に東青梅駅まで辿り着いた。あとは住所だけを頼りに見知らぬ街を歩いて、ようやく探しあてた。そもそも彼が在宅しているという保証はどこにもないのだが、「大丈夫、きっといるに違いない」と確信していた。パックの翌朝は寝坊しているはずと踏んだのだ。案の定、眠たそうな中世君が目をこすりながら玄関に出てきた。

藪から棒の訪問だし、まるきりの初対面なので彼もびっくりしただろうが、「ぜひ会って話したい」という、こちらのやむにやまれぬ心境を察してだろう、すぐ笑顔になって「狭いところだけど、まあ上がって。話をしましょう」と招じ入れられた。
そのあと彼とどんな会話をしたのか。今ではもう何ひとつ思い出せないが、午後のかなり遅い時間までじっくり話し込んだように記憶している。

それから3日後の8月12日、21歳の僕は原宿の千駄ヶ谷区民会館にいた。

(numabe)


●『ミドリブタ・ニュース』1974年8月上旬発行

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